食べるということ


「食肉」の問題について

供犠について

肉食と菜食など

「食べること」の宇宙的意味

食べるということ

食●供儀への感謝と解放による宇宙的循環

供養の宇宙的意味

 

「食肉」の問題について


(91/11/11)

 

 この問題は、普通考える以上に大きな問題をはらんでいるように思います。僕は特にヴェジタリアンということでもないのですが、こうした問題に対して無関心であることが、現在の地球規模の問題へと派生しているように思うのです。

 宮沢賢治に、「ヴェジタリアン祭」という作品があって、このなかでもこうした問題がクローズアップされていますが、この作品の主人公は、単に教条主義的なヴェジタリアンではなく、もし食肉が避けられないものであるとしても、それは必要があれば自分をも「肉」として犠牲として捧げられるという覚悟のようなものを前提としたヴェジタリアンだったように思えます。

 これは法華経を背景とした宇宙論的行の視点であると僕は思っているのですが、シュタイナーや神智学の理論においてもこの考え方はベースに流れているように僕は考えています。「カルマ」という視点として。

 今手元に資料がありませんから、明確にどう論述されていたのかははっきりとは覚えていませんが、まず「屠殺」を含めて、他者の命を傷つけるということは、その理由がどうあれそのカルマは残る。つまり、シュタイナーでいえば、魂(アストラル)のレベルで、他者の体験した内容をそのまま自分でも体験することになるというものです。これは、単に屠殺ということに限らず、「食肉」ということにおいても同じで、その行為はカルマ的連関のもとにあるということなのです。

 もちろんこの問題は、屠殺にしても食肉にしても、結局個人のレベルだけではなく、社会的連関のもとで考察されなければならない問題ではあるものの、とりあえずは個人の主体的な「覚悟」のもとで引き受けられなければいけないように思えます。

 カルマということばで表現するとちょっと誤解を招きやすいのですが、要するに他者になした行為が、基本的に自分になした行為となって返ってくるということ。それは結局、あらゆる自分の行為が責任を伴っているのが「生」であるということになると思います。これは、単に感情的な問題ではなく、大きな現実として私たちの前に立ちふさがっているものであります。

 この問題は、屠殺ということのさずさわっている人間に対する配慮という問題を超えて、そして「食肉」という行為を行っているすべての存在の問題でもあります。

 僕は、シュタイナーの提出している神秘学的世界観というのは、ある意味で、この問題を含めた「生」の根本的問題に、きわめて主体的に答えていくものでもあるように思っているのですが。

 

供犠について


(91/12/21)

 

 食肉の問題については、前回僕の基本的な考え方を述べさせていただいてますが、ただ、問題は「食べる」とか「呼吸する」とかいった生きていくためにどうしても必要なことをどうとらえていくのか、ということに結局は行き着くように思います。

 どっかでこんなシーンを読んだことがあります。ずっと昔の「エデンの園」のような理想的な生活に関する記述だったと思いますが、ある人が魚を食べようとするとき、どうするかといえば、川のそばにたたずんで、じっと祈っている。

 言葉は正確じゃありませんが、

 「どうかこの世界の一部としての私のこの生のために、その身を捧げてくださる方(といってもお魚さんですが)がいらっしゃいましたら、その身を捧げて下さいませんでしょうか。」というようなことをずっと祈るんです。

 そうすると、仏陀の話しの兎のように、その身を犠牲にしても、他の生のためになりたいという魚が現れて、自ら川から陸の方に身を投げる行為をする。受け取った人は、それはそれは崇高な祈りでもって、その供犠に応える。もちろん、そうした供犠の行為が行われなければ、あえて食を控える。

 この行為は、特に「食肉」だけに行われるのではなくて、もちろん植物や水やその他のあらゆる存在に対して行われる。たとえば、石を切り出す行為ひとつにしても、石の意志(シャレではありません)、意志の供犠を受け取るということで、その行為が行われる。一回一回の呼吸に対しても、同じ供犠の行為としてそれを行なう。地・水・火・風という四大存在たちへも。

 このシーンを読んだとき、感動のあまり身動きできなくなったことがあります。生かされている思いと供犠をささげている無数の存在たちへの感謝とで、身体中がふるえるような感じ(わかるでしょう?)がしました。

 シュタイナーが随所で語っていることの中には、このあらゆる存在たちの供犠への深い認識が含まれているように思います。

 先日の高橋巌さんの講義のテーマも、「物」を慈しむこと。それによって四大存在を解放すること。調和的な世界感情などなどだったように思いますが、やはり「食肉」という問題もそこらへんの認識から少しずつ少しずつ、決して短絡的にならないようにしながら、じっくりとじっくりと見つめていく必要があるように思えるのですが、どんなもんでしょうか。

 そういえば、どっかで(たぶん、シュタイナーではありませんが)「感謝」というのはある意味で「カミ」への供犠であり、それによってわれわれ人間存在は、あらゆる「与えられていること」に対し、「カミ」への報恩を行っているのだ、とかいうことを読んだことがありますが、確かにそうかもしれないなあ、とも思います。

 

肉食と菜食など


(92/06/16)

 

 シュタイナー農法についてですが、

 「シュタイナーは、1922年頃より開始した研究と実験の成果を基礎に、彼の死の前年にあたる’24年コーバーウィッツ(シレジア)にあるカイザーリンク伯爵の経営する農場で、8回にわたる連続講演を主とする農業講座をひらいた。農民や農園主や園芸家たちの前で農耕耕作、牧畜、施肥、輪作、農業経営について語った。そして彼は、施肥の最大の目的は大地の活性化にあることを力説した。この講習会に参加した人々は、一生涯耕地や家畜に囲まれて暮らしてきた自分たちよりも、土壌の性質や組成等いろいろな点で、より詳しい知識をもっている64歳の一精神科学者の存在に驚嘆の念を抱かずにはいられなかった。

 シュタイナーは、幼年時代に自分の家にある両親の小さな菜園の手入れをいつも手伝っていたというが、この時にシュタイナーが与えた農民への助言が次第に実行に移され、第2次世界大戦等によって一時的な衰退はあったにしても、今日このシュタイナーの農法は「バイオ・ダイナミック農法」として再び知られるようになっている。特にこの農法によって収穫された作物は、多くの国々で「デメーテル」という商標で知られ、需要が多く生産(供給)が間に合わないという好評ぶりである。

(中略)

 この農法では、自然の生産能力についての洞察や、地球や宇宙との関連についての錬金術的ともいえる知識を得ることが、大地や植物や動物を健全にするために、それ故に人間を健全にするための前提条件となっている。」

 シュタイナー農法については、

●シュタイナー「農業講座/地球、鉱物・植物・動物・人間の霊的・宇宙的関連」

                             (人智学出版社)

 という邦訳がでてますので、興味があれば、参照して見て下さい。

 ご希望があれば、その中からいくつかピックアップしてご紹介してもいいですが、今回は、「食物」についてのことに話を移すことにします。

 このテーマについても、

●シュタイナー「食物と健康」(西川隆範訳、イザラ書房)

 という邦訳が最近でてまして、とても分かりやすく面白い講義集ですので、一度お読み下さればと思います。

 その中から、平易に菜食と肉食について述べられているところを引用することにしますが、シュタイナーの視点は、ふつう「生きている」とされている存在の枠組みを超えて、鉱物、植物、動物、植物というこの世界の存在者たちのすべての連関と私たち人間にとって「食する」とは何かという視点を射程に置いた上で、それぞれの意味について考察されるものです。そうしたことについての詳しい内容を紹介すると大変ですから、分かりやすいところをピックアップさせていただくことにします。

個人という狭い限界から発する偏見を超えて、事物の壮大な関連を見上げることができるのは、菜食のおかげなのです。大きな観点から自由に人生と思考を整頓できるのは、菜食のおかげです。怒り、反感、偏見に狂うのは肉食のせいです。

しかし、わたしは菜食主義を扇動するものではありません。肉食は人間にとって必要なものでした。今日なお必要なものです。地上の人間は堅固であらねばならず、個人的になるべきだからです。人間が個人的な興味を抱くのは、肉食のおかげなのです。戦争をしたり、共感や反感を持ち、感覚的な情熱を持つ人間がいるのは、肉食にその原因があるのです。人間が狭い興味に夢中にならず、普遍的なものに興味をもつのは菜食のおかげです。菜食を好む民族は霊性への素質を有し、そうでない民族は勇敢で果敢です。勇敢さ、果敢さというものも人生には必要です。勇敢さ、果敢さというのは、個人的な要素なしには持つことができません。そして、個人的な要素は、肉食なしには発生しません。(P18)

人間は動物を食べます。すると次のようなことが生じます。つまり、植物を食べるときに使わなければならなかった力を、動物を食べるときには使う必要がないのです。植物を摂取するときには、一定の量の力を使用しなければなりません。動物を食べるときは、その力は使われません。(中略)できるかぎりなにも果たさないことではなく、力のすべてを活動させることによって、体は健康になります。植物を食べるときに用いる内的な力を、動物を食べるときには使わないのです。自分のなかにある、ある量の力を活動させないのです。人体の中で使用されない組織は、萎え、硬化します。動物を食べると、人体の一部は死ぬか、すくなくとも萎えるのです。(中略)

肉食の作用をもっと詳しく知るようにしましょう。人智学的な生活をしていると、肉食に吐き気を催すようになってきます。人智学者は肉食を禁じるというのではなく健全に進化した本能が肉食を寄せつけなくなるのです。そのようにして肉食を好まなくなるほうが、抽象的な規則から菜食主義者になるよりもずっと良いのです。人智学的な生活をとおして、肉食に対する嫌気と嫌悪感が生じるようになるのが、いちばんよいのです。それ以外の方法で肉食をやめるのは、あまり価値のあることではありません。『肉食は人間の物質体にとって重荷となる』と、いうことができます。これが事実の一面です。(P131〜132)

菜食にすると、人間を宇宙に結びつける力が刺激されます。植物を消化するときにおこなわなければならないことが、太陽系全体の力に関与するようになります。菜食にすると、物質体は太陽系から疎外されないのです。人智学的あるいは秘教的な修行を積んだ魂は、菜食にすると地上の重さではなく、惑星系の中心である太陽からなにかを受け取るのを体験します。(中略)植物のなかで多くの働きをする太陽の光を、人体は摂取するのです。

いままでに述べたことから、神秘学的−秘教的な進化において、肉食によって地上に縛られたり、地上の重さを担い込むようにならないことには大きな意味があることが推測できると思います。なにを食べるかの決断は、個々人の個人的な状況によってなされます。肉食をしないと、人間の生活全体の進化は容易になりますが、狂信的な菜食主義者になってミルクや乳製品を避けるのは、重大な事態です。魂が霊的なものへと進化していくとき、ある危険が存在します。ミルクや乳製品を摂らないようにすると、地上からの離脱に対する愛が生じるのです。地上の人間的なものとの結びつきを失いやすくなるのです。(P141〜142)

 興味深いところはたくさんあるのですが、長くなるすぎますのでここらへんにしときますが、菜食にせよ肉食にせよ、それぞれのさまざまな視点を検討した上で、その認識を内的に深めていかないと、単なる狂信的なものでしかないように思えます。

 菜食という問題にしても、「宇宙」まで含め、幅広く多視点的なアプローチをしていくことが神秘学である、そう考えることが必要ではないのでしょうか。

 

 

「食べること」の宇宙的意味


(92/06/17)

 

 肉食と菜食の問題っていうのは、やっぱり大きな問題だなあとあらためて考えさせられてしまいました。

 悲しいことに最近では廃れがちの、両手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」、というのがこの「神に祭ってから」というのにあたるのだという気がします。

 植物にせよ動物にせよ、「供犠」を捧げている存在やその宇宙的連関に対して心から感謝の波動を送ってから食べるということは、すごく大事なことですよね。

 もっと言ってしまえば、食べることだけではなく、一回一回の呼吸さえごとが宇宙的意味をもっていて、一瞬一瞬、それに対して「感謝」で応え続けなければいけないはずなのです。

 これは僕の直観的な考えなのですが、この「感謝」というエネルギー波動がなぜ大切かというと、宇宙からさまざまな「供犠」を受け取っていることの「お返し」というのが「感謝」で宇宙的エネルギーの循環を円滑にするためには、この「感謝」という行為が必要不可欠なのではないかと感じています。現代という時代は、人間の多くがこの「感謝」を忘れてしまっているがためにこの「循環」が淀んでしまって、人体でたとえるとすると血液が正常に流れなくなってしまって、閉塞状況になってきているのではないか。そして、この閉塞状況の必然的結果として、「ハルマゲドン」的な状況が招来されてこざるをえないのではないか。そんなことを考えたりもしています。

 なぜ、肉食があまりよくないのかという話に戻しますと、肉食は、植物にはない「アストラル的なエネルギー」を摂取するということであって、それは、人体にとっては地上的・物質的な波動に固着させるベクトルです。そして、それが過度になると、高次の宇宙的連関から遠いものになります。しかし、この地上で生きる意味を考えた場合、現時点では、それを全人類的に完全に否定してしまうことも、また問題になってくるものと思われます。

 もちろん、遠い将来においては、肉食だけではなく、一切の「食」という行為がある種の宇宙的エネルギーの交換という形に昇華していくであろうことは想定されます。現に、ほとんど食事をとらないでも生きていける霊的な方というのは確実にいらっしゃるくらいですから(^^;)。(これには、ある種のムー的秘儀が関わっているようですが、そこらへんはいずれ)ただ、現在の波動の荒い地球で生きていくことというのはさまざまな意味で非常に苦しいことであるようで、そうした未来はまだまだはるか遠いことかもしれませんが・・・。

 理想としては、やはり菜食へ向かう方向性というのは大切で、ある種の認識を得るためにも大切なことかもしれませんが、やはり、その方向性というのを、自分の実感として受け取るだけではなく全人類にとっての「食」の意味、そしてその宇宙的連関ということをヴィジョン化することというのも不可欠のような気がします。つまり、肉食によって動物的なアストラル波動に染まるのは耐えられないけれども、それが必要な場合もこの地球に生きる人間には確実にあるのだ、ということを知らねばらなない・・・・というように。

 植物も動物も鉱物もその他の存在者たちも、いろんな意味で「供犠」を捧げながら(広い意味で)生きているのであって、供犠を捧げた存在に対してそれを感謝して受け取っていきながら、人間自らがまた宇宙へ供犠を捧げていくというのが、壮大な宇宙エネルギーの循環構造だとすると、私たち人間は今どうみても滞っているこの宇宙的なエネルギー循環を正常に流していくような方向性を模索していくべきではないのでしょうか。

 「食べること」をはじめとするすべての行為の宇宙的意味を考えていきたいと願っていいます。

 

 

食べるということ


(94/04/07)

 

 肉食が良くないとしたら、それはひとつには「肉」が生産^^;されるあり方にありもうひとつはそれが宇宙からのパワーを受けにくくするということにあります。炭酸飲料にしてもそうで、それはある種の霊性を破壊してしまうのです。そうしたことを理解した上で、それを食べるかどうかを決める必要があって、そうしたあり方を越えるだけの「祈り」や「感謝」ということをそれができないとしても、最低限心がけるということが大事なんだと思います。

 僕自身はどうしているかというと、別にそれらを自分に禁じてもいないし、反対にそれらがむしょうに食べたくなるかというとそうではありません。食べるときには食べ、食べる必要のないときには食べない。そして、肉食に限らず、食べるときにはかならず「いただきます(^^)」と宇宙のエネルギー循環のことなどを感じながら、少しながら祈る。そういうことにしています。ただ、炭酸飲料の場合は、飲まなくても済みますから、ほとんんど飲まないようにしています。そもそも炭酸飲料の代表のコーラなどは、気分悪くて飲めないんです^^;。

 

 

食●供儀への感謝と解放による宇宙的循環


(95/06/17)

 

 「食べる」ことをエゴにしてしまって、ただただ貪り食っていることこそを問題視していく必要があるように思います。最近はどうも魚以外のお肉の消費量が激減しているのですが、それはべつに「食べるべきでない」ということからではなく、「食べる」ということをじっくり感じるようにすればするほどそうなってしまうということなのです。そして、そのことによってパワーが落ちてくるかというとむしろ無理に暴走してしまうようなエネルギーが減って、非常に安定したエネルギー供給が可能になった感じがしています。

 さて、「食べる」ということについていろいろ考えてみますと、この世は、生物達の生と死のドラマチックな競演であり、まず、どんな生き物も必ず死ぬということになっている以上は、必ずその死体が残ってしまうことになります。そして、「食べる」ということがなければ、死体は腐らずに残ります。腐敗を司る微生物達はそれを食することで分解し、またそれを循環させているんですよね。その循環がなければこの世界は死体の山であふれてしまうことになります。

 それは、「死」と「生」があることの必然としての行為でもあります。そういう連鎖の果てに我々人間の「肉食」はあるわけです。ですから、その食物連鎖を排除するような「食」の考え方は、むしろ非常に感情的な過剰な観念の産物であるといえます。

 しかし、「食」ということを「恵み」として受け取れていた時代はまだしもそれを「恵み」ではなく、「貪りの対象」としてしまったときに、その食べられるものの「供儀」というのは無意味化されていきますし、そこに「感謝」ということもありえず、従って、食べられたものは決して「解放」されなくなります。

 「謝肉祭」だとか「○○○供養」だとかいうのはその「供儀」に対する「感謝」によって「解放」することだったわけです。もちろん、感謝するためにはおいしくいただくことが欠かせません(^^)。

 その「解放」ということには、単なる物質の循環、生命の循環というだけではなくもっと広く深い宇宙の営為としての循環という意味もあるのではないかとぼくは感じているのです。

 感謝が解放であるというのは、与えられたものを形を変えてお返しすることでまたそれがエネルギーのもとになってこちらに与えられていくということで、そうした循環を増幅させていくことで、この宇宙は豊かになっていくのではないか。そういうファンタジーなのです。

 食べるために生き物の命を管理することが善であり、自然に生きている生き物を食べるためにやむなく殺すことが悪であるという構図は・・・変です。それがわからないのは大馬鹿者なのですが、その大馬鹿者が大馬鹿者の理屈をわめきたてて、それを正当化させようとしています。あまりに幼稚でお話にならないくらいなのですが、どうしてそれが通ってしまうのかやはり不思議で仕方ありません。「野蛮人」に「白痴」という言葉をつけてお返ししてあげたいくらいです。

 

供養の宇宙的意味


(95/06/18)

 

 「食べる」ということについてのぼくなりの考え方は、前回少しお話してみましたが、おっしゃるとおり、食べ物の食物連鎖を逸脱した行為や食べ物になった存在の「供儀」に対して、「感謝」し「解放」できないようなありかたというのは“問題外の愚行”だと思います。

 また、たとえ生命を持たない“モノ”であっても、なにがしの道具として作られ、使用できる限りは“命”があると考えてもおかしくないです。今でも日本では「○○○供養」ということが食べ物になった存在だけではなく、「生命を持たない“モノ”」に対しても行なわれていますが、その意味が次第次第に忘れられていく風潮になりつつありますよね。

 「供養」というのは、「感謝」「解放」という宇宙的なエネルギー循環だとぼくは思うんです。もしそのエネルギー循環が滞ってしまったとしたら、目詰まりをしたパイプのように、垂れ流した側に逆流してきますし、必要なところに必要なものが流れなくなって、結局は、みずからの手でみずからの首を絞めてしまうようなことになります。「環境破壊」というのもそのひとつのあらわれであり、また「人間性の破壊」、“問題外の愚行”というのもそのあらわれだと思います。

 単純にいうと、「与えたものが返ってくる」ということですから、「与えなかったものは返ってこない」ということで、「悪しきもの」を与えればそれがみずからに与えられ、必要なものを与えなければ、必要なものは与えられなくなります。そんな単純なことなのですが、それがわからなくなりかけているのです。

 何でも大切に、感謝しながら有効利用させていただく…という気持ちを大切にしてゆく気持ちを忘れてはならないのだと思います・

 「情けは人のためならず」という言葉がありますが、そうした「感謝」はすべて自分のためでもありますから、そうした「自利」が「即利他」であるような認識を深いファンタジーのなかで実感していきたいものですね。


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