死生学ノート9

祈ることから祈られることへ

(2006.2.6)

 死はがんらい、不条理性を含んでいる。その不条理性をたんなる諦観
や運命論、宿命論に解消してしまわないためには、人間を超えたもの、
つまり、超越的視座を導入することが重要なのではないか。死や病は、
確かに人間にとって不条理な出来事である。しかし、このような考えは、
人間が自分の立場から見ることによって生まれてくるものである。不条
理と思われる出来事を、人間の視座からではなく、人間を超越した視座
から見ていくと、また別の世界が見えてくるのではないか。

 たとえば、われわれは、病や死に直面するとき、普段は無信仰な者で
も、思わず神仏に手を合わせて祈る。…
 このような「神」や「仏」に向けられた祈りは、自分というものを中
心に置いた祈りであり、自らが自力で「生きよう」とする意思に裏打ち
されている。このような姿勢で生きようとする人は、病や死は、自らの
意思に逆らうものとして認識するから、不条理な現象としてみなしてし
まい、また、そのように見えてしまうのである。
 他方で、自分が「神」に祈るではなく、神のほうから自分が「祈られ
る存在」であることに気づいた人々がいる。このような人は「人の霊」
ではなく「神の霊」を信ずる人である。このような人は、自分の生を自
分で「生きる」のではなく、この生は、「生かされている」と感じる。
この場合、神や仏など超越的な存在が、自分自身の「生」を真の意味で
生かして欲しい、ということを祈る存在であることを悟る。
 そのとき、われわれは、神に「祈る存在」ではなく、神によって「祈
られる存在」であることに気づく。このとき、生と死に関する発想の転
換が生ずるのである。そして、死や病に関する不条理性に関して、新し
い 角度から光が与えられる。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.212-113)

祈りというはいったいどういうことだろう。

ぼくは生まれてこの方、なにかを「神」や「仏」に対して
祈ろうとしたことがあっただろうかと自問してみる。
おそらくあまりなかったのではないかという気がする。
もちろん、神社などでおざなりに手を合わせてみたこともあるが
そこで何かを「祈」ったりすることはなかっただろう。
たとえば「〜してほしい」というような祈願のような祈りを
「祈り」というのであれば。

「祈願」としての祈りにはどうも抵抗がある。
エゴをそういうかたちでぶつけてしまうというイメージがあるのだ。
エゴとはかならずしもいえないとしても、
そこまでの切実な何かに直面したとき以外に
そういうことを自分に許してもいいものか、という思い。
だから、神社などで手を合わせるときには、
頭をただからっぽにしてみたり 、それができないときには
「ひふみ」をとなえてみたりすることになる。

思いは、念いになり、形になる可能性を秘めているのだけれど、
それを「神」や「仏」に向けた祈りにするのは
やはりどこか違うという気がしてしまうのだ。
小さい頃、ぼくは病気で死にかけた経験もあるけれど、
そのときでさえ、病気を治してほしいとかいう祈りはしなかったように思う。
やはりそれはどこかぼくのなかでやってはいけないことのように思えたのだ。

しかし、「祈り」をそのように「神」や「仏」に向けた祈りとしてではなく、
神によって「祈られる」という、いわば逆対応としてとらえてみると
そこには大きな光が射してくるようにも思う。
神に祈るのではなく、神によって祈られているのだと気づくこと。

南無阿弥陀仏という念仏にしても、
仏に祈りの念をぶつけるというとらえ方ではなく、
逆に祈られてもいることであるというふうにとらえれば、
法然や親鸞、一遍の言動のさまざまが腑に落ちてくるところがある。
祈られている存在として自分をとらえかしてみることで
わたしは限りない存在として許されているのだということを実感できるのではないか。

死生学ということをどうとらえるかという視点においても、
そのようにとらえることで、死と生という分裂から
高次ー低次を超えて累乗された存在として
みずからをとらえかえすということの可能性が見えてくる。
それはあくまでも出発点にすぎないのだろうが、
それはたしかに、「光」、しかも闇を排除しない、
闇をも変容させる「光」でもあるような気がしている。