死生学ノート8

人格の自由

(2006.2.6)

 私たちは、強くなればなるほど、健康であればあるほど自由度が大き
くなると考える。そして、病気は自由を縮小させると考える。しかし、
健康であれば、別なものに縛られることも考えておかなければならない。
病気は不自由であることは確かだが、別の角度から考えると自由を拡大
させることもあるのではないだろうか。

 こころを病むということは、身体とこころを病むことである。人間を
全体で考えると、こころと身体に分けることができない。人間は確かに
こころを病むことがある。しかし、それは人間の精神性(スピリチュア
リティ)ないし人格まで破壊されることを意味するものではない。人間
には、身体やこころの病にかかったとき、それに反発する力がある。
 病気にかかると、決定論や運命論にとらわれ、絶望だ、未来はないと
諦める人が少なくないが、人間のこころやからだの背後にある人格的な
部分は、こころの病やからだの病からも自由である。ここにこそ、人間
における尊厳、人格の自由があるといえるだろう。

 われわれは日常生活の中で自分という我に執着して生きている。また、
その自我に執着するからこそ、日常生活的な社会活動ができるのである。
ところが、病を得たり、死を前にすると、これまで執着しいてきた我に
対して一定の距離をおき、洞察力をもつことができるようになる。健康
なときまったく気づかずにいたものが、死や病という限界状況において、
いわゆる本来的自己、ないし真の自己が目覚めてくるのである。それを
真実の自分と表現することもできる。
 その本来的自己、ないし真の自己とは、内なる超越、つまり自分を超
えたものである。真の自己は、こころのふるさと、つまり楽園に回帰し
た状態とも関係してくる。なお、このこの真の自己は、完全に真の存在
がそこにあるというものではなく、真の存在に問いつつあるといった未
完了の形態と考えた方がいいだろう。
 このような体験は自分という我を超越した体験といえる。聖パウロの
ダマスカスの途上における宗教体験や、ヨブが神の力を感じた不思議な
光に類似している。パスカルもそのような体験をしたとされる。

 しかしここで注意すべきことがある。内なる超越を通して、真の自己
あるいは、本来的自己になるためには、神との出会いが必要になる。そ
の場合、神と人間とは直接的、連続的に出会うのではなく、その前提と
して両者の間には暗闇と混沌、深淵が横たわっていることを知らなけれ
ばならない。神と人間との分裂、断絶を通してはじめて、人間は神を知
り己を知るに至るのである。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.169-174)

自由であるということは
とらわれのなさということでもあるが、
いったい何にとらわれ、
何にとらわらないということなのだろうと問う必要があるだろう。

たんなる束縛のなさという自由は成立するだろうか。
そしてその自由は自分のいったい何を自由にさせてくれるのだろうか。
自由を「自らの由」というふうにとらえてみるとすれば、
その束縛のなさが、自らの由を見出すのに役立つだろうか、ということでもある。

そう考えてみれば、その束縛のない状況だけで
自らの由を見出すことができるためには
よほどの叡智が必要とされないだろうか。
すべてを自分で見出す力とでもいおうか。
それはとほうもないものなのではないか。

逆に、自由さが失われた状況を考えてみる。
それによって失われた自由というのはいったい何だろうか。

荘子に混沌の話がある。
混沌に目や鼻がないからといって
穴をあけていくと
7つめの穴をあけたときに混沌が死ぬという話。
この話で通常語られるテーマとは角度を変えて
そこに積極的な意味を付加してとらえてみる。

自分を混沌であると考えてみよう。
楽園にいるといってもいい。
目や鼻を得るために、混沌としての自分が死んでしまう。
分裂して楽園から追放されてしまう。

しかしその「死」が必要であるということもできるのではないか。
その「死」ゆえに獲得できる「自由」。

ゆえに、人はさまざまに「死」に値するような
さまざまな不自由に直面することがある。
しかしその象徴的な「死」は人格を破壊するものではなく、
むしろ「死」によって生きるためのものであるととらえることもできるだろう。
より高次の自由のために低次の自由を犠牲に捧げるともいえるだろうか。