死生学ノート7

楽園の外で

(2006.2.6)

 神は善悪を知る知恵の木の実を食べてはいけないという規範を人間に
与え、人間がその規範を破ったことにより、神と人との間、人と人との
間に裂け目、分裂が生じるようになったことは前に述べた。調和と安定
が保たれ、神によって保護された無菌状態の楽園は、神に囲まれていた
ということができる。人間は規範を破ったことによって、はじめて楽園
の囲いは打ち破られ、人間は楽園の外に放り出された。このとき、人間
はふるさとを失い、楽園の住民としての立場を失い、混沌と闇の中に放
り込まれ、不合理と不条理を知ることになった。にもかかわらず、神は
沈黙したままであった。人間はそのときから、記憶を失い、自己同一性
を失い、自己同一性を失い、孤独と寂寥感を味わっている。

 「実存」という言葉、エグジス・テーレ(existere)は、「外に出る」
「外にある」という意味をもつ。つまり「実存する」ということは、距
離を置くこと、あるいは差異を設けること、あるいは反省すること、
あるいは自己を客観的に見るということを含んでいる。
 実存する主体とは自分である。自分とは文字通り、「自ら」を「分」
けるということである。自分が真の意味において主体的な「われ」とな
るためには、「自ら」を「分」けなければならない。そのためには、一
度自分の存在の外に出る必要がある。それを「内なる超越」といっても
よい。そのことによって、はじめて真の意味で自分となるのである。つ
まり、自らを分けること、一度、自分という存在を裂くことが、本当の
自分になることである。

 このような人間の危機、すなわち外に出ること、距離を置くこと、差
異を明確にすることは確かに痛みを伴う。しかしよく考えてみると、存
在の外に出るということができれば、自分の存在そのものを絶対化せず、
自らを客観視し、対象化し、そしてそのことによって自分自身を内省し、
あるいは自己洞察することができる。その結果、人は、はじめて真の自
分というものをはっきりと知ることができる。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.153-156)

わたしがわたしそのものであり分裂がないとしたならば、
わたしはわたしであるということがわからないだろう。
つまり、自分をみる目を持ち得ないということである。

人間という文字が「人ー間」と書かれるのは象徴的なところがあって、
それは人と人の間ということ以前に、
わたしという人のなかに「間」があるということでもあるように思う。

しかしそのわたしのなかの「間」を意識するということは
それなりの「痛み」を伴わざるをえない。
生が苦であるというのはそのことである。
生まれたときから人は次第にみずからを分裂させることで
成長していくということである。
そこに、四苦八苦が生まれる。
しかしそれなしでは人間ではない。

内省とか反省というのは、
その分裂した自分を見据えるということであって、
それなしでは、人はみずからの「実存/エグジス・テーレ(existere)」を
明確にしていくことはできない。

人はひとりでいられないと、
目を外に向けて、外的なさまざまのなかで自分を解消しようとし、
反省である実存からみずからを遠ざけようとする。
しかしそれではますます人は分裂せざるをえない。
その煩悶がそのひとりでいられないひとを
ますます分裂させていくことになる。
楽園を渇望し楽園の幻を追い求めるということで
ますます楽園から遠ざかっていくことになるのである。

それはたとえば、みずからの影(シャドー)をみないことで、
その影に無意識におびえてしまうようなものだ。
みずからの内なる女性性を隠蔽しようとし男らしくあろうとする男性、
みずからの内なる男性性を隠蔽しようとし女らしくあろうとする女性もそうだ。

分裂から統合へと向かうためには、
自分を意識的な「実存/エグジス・テーレ(existere)」として
とらえようとする方向性が不可欠なのだろう。

楽園を探し求めてむしろ遠ざかるのではなく、
楽園の外にあるみずからの意味を発見することで、
あらたな楽園の可能性を見出すということ。