死生学ノート6

存在と記憶

(2006.2.6)

 記憶とは、時間を貫いて持続する自己そのものであり、しかも、自己
の存在を支える意味を創造する場であると同時に、自己を超えた大いな
る存在である神や自然と出会う場である。つまり、人間の精神は、その
もっとも奥深いところにおいて、神や自然など、自己を超えた大いなる
存在に向かって開かれている。
 しかし、われわれ人間は、アウグスティヌスがいうように、「御目の
前で、私は自分自身にとって謎となりました。それこそまさに私の病」
なのである。ここで彼がいう、自分自身が謎だということは、人間は自
分のこころの中をはっきりと知ることができないということである。病
とは、人間の弱さということであろう。知的記憶に基づく物体的事物の
心象や感覚的記憶に基づく感情的な心象によって、人は神を見出すこと
はできない。
 とはいえ人間には、知的記憶や感覚的記憶の他に、忘却としての記憶
や希望としての記憶が深層意識の中に潜在的に埋め込まれている。つま
り、人間の「識られざる神」を求めるこころは消えていない。ただ、そ
の記憶は、普段忘却され、意識の上にのぼってこない。ただし、さまざ
まな実存的な限界状況に直面したとき、忘却としての記憶や希望として
の記憶は蘇る。

 使徒パウロは、人間が生まれる以前から、神によって記憶されていた
と述べている。そうすると、宇宙の創造の歴史全体から人間がもつ記憶
を俯瞰すると、それは部分的なものにすぎないのであって、神の記憶が
人間の記憶に先行して存在するということになる。

 人間の場合、記憶は忘却したり、病や弱さによって記憶全体が分散し、
意味をもたなくなることがある。そのとき、その人にとって自分が謎に
なるのである。しかし、神は、「最初の者にして、最後の者、初めであ
り終わりである」存在であって、人間の記憶全体を上回る大きなスケー
ルで宇宙全体を記憶する。このことは、世の初めから神によって記憶さ
れており、また、人間が死んでその存在に関する記憶が人々の記憶から
失われたときですら、神はその人間を記憶しているということを意味し
ている。
 しかも、ここでその記憶が全人類のために屠られた子羊、つまり、犠
牲との関連の中で、神によって記憶されているという。犠牲なくして記
憶はありえない。愛のための犠牲という痛みの体験を通して、記憶は蘇
り、その痛みを癒す。犠牲が記憶を賦活し、その記憶に意味を与える。
その記憶とは分裂を統合へ導く知恵のことである。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.126-127)

ぼくはあまりに忘れっぽい。
自分に都合の悪いことをころころと忘れるならまだしも、
自分の都合の良さそうなこともころころと忘れてしまう。
その点、臆病なわりには、生来の脳天気であることを否定できないところがある。

そういう勝手な忘却癖にもかかわらず、
ぼくは「時間を貫いて持続する自己そのもの」としての記憶を
おそらくどこかでもっているのだろうと、
ほとんど楽天的な感じで確信していたりもする。

ぼくという存在の記憶…。

小さい頃、自分が死んでしまった後、
今こうして考えている自分さえもなくなってしまうのだと
不安なままに何度も夜明かししてしまったことがある。
なぜ自分がここにいるのに、いなくなるのだろう。
だったら世界というのはいったい何だろう。
あらゆる意味の可能性がそこでは不安な幻となってしまう。
それは高校生の頃まで断続的に続いた。
仏教書などを読んだり、実存について哲学書を漁ったりもしたが、
そのうちその煩悶が次第にどこか
宇宙に織り込まれるように解消されるようになった。

ぼくなりのある方向性を見出すことができたのは、
その後の十数年という時間が必要だったのだけれど、
それに先駆けるように、ぼくという存在の「記憶」の可能性というのだろうか、
それは決してなくなりはしないのだとという思いが強くなってきた。

それは今のぼくという小さく狭いぼくではないかもしれないが、
なにか大いなるものへと向かうプロセスとしての記憶のようなものとして
ぼくという存在はなんらかの「意味」を持ち得るのだろうという思いである。
ぼくにとっては、ぼくがこうして存在しているということ
そのものが大きな謎の塊なのだけれど、
それが謎であるということそのものが
大いなる可能性でもあるのではないかという思い。

引用にもあるように、
ぼくが今記憶していないとしても、
「神によって記憶されている」ということ。
ぼくは今、数限りない小さなものとして「分裂」している存在であるにもかかわらず、
「叡智」をそしてそれが変容したものとしての「愛」ゆえに、
「統合」へと導かれていく可能性をもっている。

河井寛次郎のことばに
「山をみている 山もみている」
というのがあるが、
山をぼくがみるだけではなく、
ぼくも山にみられているということは、
そこでぼくは、ぼくであると同時に
山とぼくは切り離されないものとして
「統合」される可能性をもっている。