悪がこの世に存在するということに何か意味があるのかということは、 
          人間にとって大きな課題である。少なくとも、悪の元凶であるサタンは、 
          ヨブに対して、病と子どもの死と財産の喪失といった禍を及ぼすことを 
          許可してくれと神に申し出て、神はそれを許したという物語を読むと、 
          われわれは、さまざまな思いに駆り立てられる。 
           この物語は、サタンが神に許可を申し出ているのだから、悪も神の支 
          配下にあることを示唆している。もし愛の神が人間を創造されたのなら、 
          それなりの責任はもたれるはずである。その愛の神が、悪の手先である 
          サタンの申し出を受け入れ、ヨブに禍が及ぶことを許したということは、 
          そのことがヨブのために「糧」となることを神は見抜いていたのではな 
          いか。 
          … 
           人間はこのような限界状況に突き落とされたとき、はじめてその弱さ、 
          みじめさ、自分がないに等しい存在であること、つまりその限界性に気 
          づくようになる。人間の「弱さ」、「みじめさ」、「悲惨さ」、「限界 
          性」というキーワードでくくれるような事態は、一言でいえば、過剰な 
          自信、誇大的思考、自己肥大、傲慢、万能感などが粉々に打ち砕かれた 
          状態である。 
           こうした自己神化的欲望と対極の位置にあるのが弱さであり、みじめ 
          さであり、有限性の自覚である。そして、人間は苦痛に悩み、自分が弱 
          い存在であることを自覚してはじめて、真の存在あるいは真の「自己」 
          が見えてくる。そこで新たな精神の覚醒が起こる。その時、人間は、そ 
          こで、より低いレベルの存在が失われても、潜在的価値として存在して 
          いたより高いレベルの新しい存在に気づくのである。 
          (平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.116-117)
         
           罪、病気、悪。 
        なぜそんなものがあるのだろうか、と問わざるを得ないときがある。 
      ヨブ記では、サタンが神に許可を申し出て、 
        ヨブにさまざまな災厄を与える。 
        神が許可しているのである。 
        限界状況を与えるのを許可する。 
        神が救いの手をさしのべるのではなく、 
        むしろ逆のようにさえみえることをする。 
      限界状況というのは、いわば否定的契機である。 
        円運動するだけであれば必要のないもの。 
        くるくると、ただくるくると回り続ける調和的永遠。 
      では、なぜこの地上に生まれてきたのか。 
        そしてなにごともなく、くるくると回り続け 
        調和のままに死後の世界へと帰還する。 
      ノヴァーリスはいう。 
      
         悪は−−善を強め、発展させるために−−必要不可欠な錯覚である−− 
      真理のために誤謬が[必要不可欠で]あるように…痛み… 醜さ… 不調 和もしかり。 
      これらの錯覚は、想像力の魔術Magie der Einbildungskraftからの み、説明することができる。 
             
      ということは、 
        否定的契機というのは、道案内役だともいえるのではないだろうか。 
        円運動をするためには必要のない、否定的契機。 
        ダンテのいうような深い森に踏み迷う可能性。 
        その深い深い森に、 
        罪や病気や悪が潜む。       それは因果応報などというものでとらえるとあまりにも貧しい。 
        ヨブに因果応報を説く愚かさのようなものだ。 
        世界は、善き人は善きように、悪しき人は悪しきように、 
        というような単純な方式ではできていない。 
        善き人であれ悪しき人であれ 
        太陽はあまねくその陽射しを降り注いでいる。 
        しかし、人は暗く深い闇の森に自ら入っていくのだ。 
        悪と自由との深い関係。 
      そしてみずからが限界状況に置かれているということを 
        他者との比較においてとらえることはできない。 
        人は自由において、暗い森を彷徨う。 
        そこから出たとき、それが大いなる錯覚であると知れたとしても、 
        踏み迷っているときには、たとえそれが錯覚かもしれないと想像したとしても、 
        そんなことは気休めにしかならないだろう。 
        人は、自分で自分に想像力の魔術をかけるのだ。 
        そして、みずからを否定的契機に置くことで、 
        たんなる調和的円環性を脱し、螺旋的なものにみずからを置く。 
        限りなく下降し、限りなく上昇する螺旋のプロセス。 
    高次の総合がそこには起こる。  |