死生学ノート4

キューブラ・ロスとヨブ記

(2006.1.14)

 人間の限界状況の中で、もっとも厳しい、試練の場である「死」とまと
もに向き合い、数々の業績をあげた人物の一人に、先年亡くなったキュー
ブラ・ロスがいる。…ところが、六二歳のとき、脳梗塞の発作を起こし、
歩行障害と、発語困難に陥る。その後、七八歳まで亡くなるまで、六回の
発作を繰り返すことになる。そして、晩年は、ベッドから自分で移動する
こともままならなくなり、人の世話にならなければ生きていけなくなった。
…このとき、多くの人にとって、信じられないようなことが起こった。彼
女はいった、「わたしは生涯、一万人以上の患者さんに愛をもって仕えて
きた。それなのにこんなひどい病気にかかった。神なんかヒットラーよ。
愛なんか語りたくない。自分を愛することなんかできない。あなた、一日
一五時間、ベッドに縛りつけられてごらんなさい。それで自分を愛せると
いえる?」「いままで書いてきたことは、何も役に立たなかった」と。

 このような訴えの背後には、「自分がこれだけのことをやってきたのだ
から、神様は当然、それにふさわしい御褒美をくださるはずだ」という考
えがあるのではないか。「善行にたいしては、それ相当のよい報いがある
はずだ」と。このような考え方は旧約聖書にて、ヨブの三人の友が、ヨブ
に語った、因果応報、勧善懲悪の思想の現代版だ。このような立場に立つ
と、愛という行為も、人々の賞賛と評価をもらう「取り引き」のために行
うということになる。
 代償を求めての交換の原理に、愛の行為が用いられるとすれば、愛の奉
仕といっても、それは、純粋な愛、無償の愛ではない。サタンは、報酬を
求めての愛の行為か、無償の愛かを鑑別するために、ヨブに不幸を与え、
彼がどのような態度をとるか、試みさせてほしいと神に迫った。そして、
神はそれを許可した。他者からの「愛を買う」ため、自ら他者に愛を施す
こと、すなわち、交換の原理に基づく愛と、無償の愛との鑑別のため、サ
タンは重要な役割を担い、ヨブの前に登場した。

 病気は、これまで人間のもっていた常識を大きく変えることがある。こ
れまで、正義や規範を支配する神に対して信仰をもって生きていた人で、
病気になって祈らなくなってしまったと訴える人がたくさんいる。自分が
これまで一生懸命に生きてきたのに、病気は罰なのか、なぜこんなひどい
病気になったのか。いや自分は罰に相当するようなことはしていない。病
気は自分にとって受け入れられない、と思う人は多い。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.73-81)

話の筋は知っていたが、ヨブ記をちゃんと読んだことがなかったので、
この際と思い、旧約聖書のその部分を読み通してみた。
涙がにじんできてしまうほどの劇的な物語。
ヨブの苦しみ、そして神の圧倒的な叡智と創造性。

たしかに、キューブラ・ロスの苦しみはヨブ記に似ている。
そしてその最期に、ロスにもまた救いが訪れたとということだが、
ヨブも、またロスも、とほうもなく愛されていたのだろう。

愛されている存在に、サタンは重要な役割を演じる。
キリスト・イエスへの誘惑も同様である。
キリスト・イエスへの誘惑も、罰などではない。
罪があるから誘惑されるわけではない。
因果応報的な発想は去る必要がある。

悪いことをしたから罰せられるという発想は、
祈願をしたら叶えられるという発想とも通じている。
お正月などに、神社にいってする祈願というのは
そういう観点からすればかなりセコイところがある。
極端にいえば、「〜してください」と要求するのだ。
そして少し謙虚そうになると
「〜するから、〜してください」と交換条件を出す。
基本的に打算の世界である。
そして、「〜するから、〜してください」の場合、
「〜したのに、〜してくれなかった」というふうに
転化・転科してしまうことにもなりかねないところがある。

愛は与えきりである、というふうにいわれる。
ちょっと恥ずかしい表現ではあるが、確かにその通りで、
それは「要求」でも「交換条件の提示」でもない。

もちろん、カルマ的連関というのはあって、
みずからがみずからの諸条件を規定するということは
現象として起こってくるだろうが、
それは罰ということではない。
病気にならないように、という予防医学的観点であると同時に、
未来へ種を蒔くそのヴィジョンの獲得でもある。

しかも、愛はそのカルマ的連関を超えている。
そしてときに、人には、あまりに愛されるがゆえに、
裏面ではみずからをあまりに深く過激に愛するが故に、
さまざまな苦難を引き受けるということが起こる。
その知恵深き道化役としてルシファーやサタンが登場して、
神にさまざまな提案をする。
宇宙はなんとドラマチックなことか。