人間の限界状況の中で、もっとも厳しい、試練の場である「死」とまと
もに向き合い、数々の業績をあげた人物の一人に、先年亡くなったキュー
ブラ・ロスがいる。…ところが、六二歳のとき、脳梗塞の発作を起こし、
歩行障害と、発語困難に陥る。その後、七八歳まで亡くなるまで、六回の
発作を繰り返すことになる。そして、晩年は、ベッドから自分で移動する
こともままならなくなり、人の世話にならなければ生きていけなくなった。
…このとき、多くの人にとって、信じられないようなことが起こった。彼
女はいった、「わたしは生涯、一万人以上の患者さんに愛をもって仕えて
きた。それなのにこんなひどい病気にかかった。神なんかヒットラーよ。
愛なんか語りたくない。自分を愛することなんかできない。あなた、一日
一五時間、ベッドに縛りつけられてごらんなさい。それで自分を愛せると
いえる?」「いままで書いてきたことは、何も役に立たなかった」と。
…
このような訴えの背後には、「自分がこれだけのことをやってきたのだ
から、神様は当然、それにふさわしい御褒美をくださるはずだ」という考
えがあるのではないか。「善行にたいしては、それ相当のよい報いがある
はずだ」と。このような考え方は旧約聖書にて、ヨブの三人の友が、ヨブ
に語った、因果応報、勧善懲悪の思想の現代版だ。このような立場に立つ
と、愛という行為も、人々の賞賛と評価をもらう「取り引き」のために行
うということになる。
代償を求めての交換の原理に、愛の行為が用いられるとすれば、愛の奉
仕といっても、それは、純粋な愛、無償の愛ではない。サタンは、報酬を
求めての愛の行為か、無償の愛かを鑑別するために、ヨブに不幸を与え、
彼がどのような態度をとるか、試みさせてほしいと神に迫った。そして、
神はそれを許可した。他者からの「愛を買う」ため、自ら他者に愛を施す
こと、すなわち、交換の原理に基づく愛と、無償の愛との鑑別のため、サ
タンは重要な役割を担い、ヨブの前に登場した。
…
病気は、これまで人間のもっていた常識を大きく変えることがある。こ
れまで、正義や規範を支配する神に対して信仰をもって生きていた人で、
病気になって祈らなくなってしまったと訴える人がたくさんいる。自分が
これまで一生懸命に生きてきたのに、病気は罰なのか、なぜこんなひどい
病気になったのか。いや自分は罰に相当するようなことはしていない。病
気は自分にとって受け入れられない、と思う人は多い。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.73-81)
話の筋は知っていたが、ヨブ記をちゃんと読んだことがなかったので、
この際と思い、旧約聖書のその部分を読み通してみた。
涙がにじんできてしまうほどの劇的な物語。
ヨブの苦しみ、そして神の圧倒的な叡智と創造性。
たしかに、キューブラ・ロスの苦しみはヨブ記に似ている。
そしてその最期に、ロスにもまた救いが訪れたとということだが、
ヨブも、またロスも、とほうもなく愛されていたのだろう。
愛されている存在に、サタンは重要な役割を演じる。
キリスト・イエスへの誘惑も同様である。
キリスト・イエスへの誘惑も、罰などではない。
罪があるから誘惑されるわけではない。
因果応報的な発想は去る必要がある。
悪いことをしたから罰せられるという発想は、
祈願をしたら叶えられるという発想とも通じている。
お正月などに、神社にいってする祈願というのは
そういう観点からすればかなりセコイところがある。
極端にいえば、「〜してください」と要求するのだ。
そして少し謙虚そうになると
「〜するから、〜してください」と交換条件を出す。
基本的に打算の世界である。
そして、「〜するから、〜してください」の場合、
「〜したのに、〜してくれなかった」というふうに
転化・転科してしまうことにもなりかねないところがある。
愛は与えきりである、というふうにいわれる。
ちょっと恥ずかしい表現ではあるが、確かにその通りで、
それは「要求」でも「交換条件の提示」でもない。
もちろん、カルマ的連関というのはあって、
みずからがみずからの諸条件を規定するということは
現象として起こってくるだろうが、
それは罰ということではない。
病気にならないように、という予防医学的観点であると同時に、
未来へ種を蒔くそのヴィジョンの獲得でもある。
しかも、愛はそのカルマ的連関を超えている。
そしてときに、人には、あまりに愛されるがゆえに、
裏面ではみずからをあまりに深く過激に愛するが故に、
さまざまな苦難を引き受けるということが起こる。
その知恵深き道化役としてルシファーやサタンが登場して、
神にさまざまな提案をする。
宇宙はなんとドラマチックなことか。 |