死生学ノート3

いのちよりも大切な「存在感」

(2006.1.13)

 いったい、いのちより大切なものがあるのだろうか。あるとすれば、そ
れは何か。それは「人間が生きている」あるいは「生かされている」とい
った「存在感」ではないか。それを生きがいといってもよい。いくら呼吸
をし、心臓は動いていても「生きている」という存在感がなければ、人間
は真に生きているとはいえない。いのちより大切なものは、人間存在その
ものなのである。存在はいのちに優位する。そして存在がいのちを左右す
る。
 せっかく親に産んでもらったいのちを傷つける少女がいる。彼女は、
「自分の手首をカッターナイフで傷つけて、血が流れるのを見るとスッキ
リする。自分が生きていると感ずる」と訴える。このような人は、存在感
が希薄なのだ。彼女はいのちを傷つけることによって始めて、自分の「存
在」を感ずる。彼女にとって、生きているという存在感がいのちより大切
なのだ。人間にとって、存在感がいかに大切であるかということがわかる
だろう。存在はいのちより重要であることを、リストカットする少女は鋭
く見抜いている。

 人間は生涯において、何度か存在の危機に直面する。たとえば、青年期
であれば、親から独立して就学、就労するとき、恋愛や結婚するとき、自
己の同一性(アイデンティティ)が問われ、「いま、ここにいる」という
こと自体が揺さぶられる。中高年においては、失業や失職、転勤、配偶者
との死別や離別、病気、退職などが存在基盤の動揺を招来せしめる大きな
要因となる。
 また、人生の終末においては、病気によって、生命の死滅の危機に脅か
される。死は、まさに存在そのものを無にすることへの不安と恐怖を人間
に与える。人間は、このような存在の基盤を揺るがせるような危機に直面
すると、さまざまな対処行動をとり、存在自体を維持しようとする。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.60-67)

存在しているのが途方もなくいやになってくることがある。
(というか、若い頃にはそんなことがよくあった。
今は、存在しているのは喜びだけれど、生きているのは面倒になってくるときがある)
そして「いのち」などとるにたりないものだという感じがしてくる。
そんなときに、「いのちはなによりも重い」というようなお説教は意味をもたない。

存在しているのがいやだというのは、
逆にいえば、存在しているということがまるで空虚で充実感がなく、
それくらいなら、存在してないほうがずっと楽だということだ。
それが逆転して他者に向かうと、人を傷つけたり殺したりということにもなる。

なぜ自分が存在しているのか。
存在しなければならないのか。
それがわからない。
世界がなければいいのにと思ったりする。
実際、そのときの思考のなかでは、
自分を消し去ることで世界も消し去ることができると考えたりもしてしまう。

いろんなごまかし方が可能である。

とりあえず、そういう考えを消し去るために
考える時間がとれないほど忙しくする。
とにかくひとりでじっとする時間をつくらない。
ひとりになったら疲れてすぐに眠くなるような状態に置くなど。
つまり「わたし」を意識しないようにする。

また、ちゃんと考えるとまったく説得力はないけれど、
なんとなく「いのちはすばらしい」とかいう感情におぼれる。
たとえば、DNAといのちを無根拠に結びつけて
なんだかわからないけれど宇宙のなかで存在するのをうれしいと思いこむ。
たとえ死んでも宇宙のなかで粒子になって存在し続けるのだ、とか。
そして、色即是空とかいって、自分がなんとなく宇宙にとけこんで
その流れのなかにいるようなイメージのなかで安心する。
それも、「わたし」を全体のなかに解消してなんとかしようとする方法だ。

でも、たとえどんなに忙しくしようが、
わけのわからないイメージで勝手に納得しようが、
ほんとうに心の底から腑に落ちて納得できるわけではない。
しかも、いろんなごまかしさえできないときもある。

今切実なのは「わたし」なのだ。

「このワタシはいったい何なんだろう?」
「ここにこうしているということはいったい何なんだろう?」
という深い絶望にも似た状態のなかで、
「いのち」よりも大切なもの、
「いのち」を支えてくれるものを見つけること。
そのためにはいったい何が必要なんだろうか。

多くの場合、それを提供するのが宗教なんだろうけれど、
宗教の与えてくれるものは多くの場合その教義のなかでしかなく、
結局のところ「阿片」にも似たものでごまかしてしまう部分は否めないだろう。

ぼくの場合は、それが神秘学であって、
その神秘学を学ぶプロセスそのものが
自分の「存在」を充実したものにしてくれる。
そして「死」はもはや(死ぬまでのプロセスは面倒だけれど)
不安や恐怖とはむすびつかない。
「いのち」にしがみつく執着からも自由になれる。
しかもそれはとくに信仰とは無関係である。
「事実」という重みの前で「存在感」は消えようがないのだ。