死生学ノート2

響き合う存在としての神・自然・人間の三位一体

(2006.1.13)

 自然を表す野生(wild)という言葉の中には、「意志」という意味も含ま
れる。他方wildという言葉を辞書で引くと、荒野とか不毛地などといった
意味をも有していることがわかる。「天は神の栄光を語り、大空は御手の
業をます」(詩編19:2)という自然賛美と神による創造が唱われていなが
ら、他方において、自然に対して、野生、不毛といった否定的表現が使わ
れていることに注目する必要がある。
 自然を詳細に観察するとき、それは美しさや癒しの力などをもつと同時
に、荒々しく破壊的な側面をも有していることを、われわれは知っている。
自然のこうしたプラス面とマイナス面に、神の意志が働いている。この理
由を旧約聖書に現れるヨブをはじめとする現代人は理解できない。なぜ、
自然や宇宙の中に悪があり、人間を苦しめているのかわからない。
・・・
 三位一体の教理とは、神が、父と子と聖霊という三つの区別された位格
(ペルソナ)であると同時に、三者は、一つの神、つまり一体あるいは相
互に「響き合う」ものとしてとらえようとするものである。この教理の類
比として、神と自然との三者関係を一体としてとらえる視点について考え
てみたい。

 三位一体との類比において、神と人間と自然との関係を考察すると、神
と人間及び、神と自然、人間と自然との関係は三者の位格、つまりそれぞ
れペルソナ(面)において、役割、秩序、区別、差異、非連続性がみられ
る。他方、神と人間と人間以外の被造物という三者は、各々共生的、連帯
的、一体的、責任応答的存在としてつながっている。つまり、三者は連続
的であって、三者は、ペルソナ本来の「響き合う」存在としてあらしめら
れている。三者は、配慮し、仕え合い、支え合う関係にある。対立ではな
く、関係が、非連続でなく連続が、強調されている。以上まとめると、神
と人間や自然(被造物)との関係は現実世界においては、非連続の連続と
いう関係にあることがわかる。
*ペルソナ(persona=位格)という言葉は本来、ラテン語に由来し、マス
ク(仮面)や面といった意味がある。しかし、この言葉は、キリスト教会
に取り入れられ、神学的用語として転用され、「三位一体」論として結晶
した。…元来ペルソナのペル(per)は「通して」という意味であり、ソナー
レ(sonare)は「響く」という意味である。…ペルソナーレは、「響く」
「響き合う」といった意味の他に「変装する」、「隠れる」といった意味
がある。つまり、ペルソナは開かれてお互いに響き合う側面と、閉ざし、
隠れるという側面とがあることを知っておく必要がある。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.20-40)

自然は、かぎりない恵みであると同時に、
牙をむいてその猛威をふるい襲いかかる存在であるとも
私たちには見える。

神も同様である。
わたしたちを育み恩寵を与えてくれる存在かといえば、
ヨブ記のように、サタンの提案を受け入れて襲いかかりもする。

わたしたち自身においても、
調和のとれた至福の状態であるときもあれば、
苦悩に満ちて救いなき状態であるときもあり、
心も身体も自分の自由にはなりにくい。
無意識において自分がなにを望んでいるのかがわからないでいる。

真実は隠されていて私たちにはわからない。
というよりも、私たちにはそれを観ずる能力がないということなのだろう。
そこで、ペルソナというものが現れてくる。
ほんとうは隠したり隠されたりするようなものではないのかもしれないが、
そういうペルソナとして神を理解してみようと試みたりする。
ほんとうは一体なのだけれど、その多面体の一側面ごとのものを
私たちは観、そして理解し、その多面体の面が響きあうものとして
理解しようとするのである。

隠されそして響き合うペルソナ。
神のペルソナ。
自然のペルソナ。
そして、人間のペルソナ。

その三つのペルソナは、互いに矛盾し、
不連続で相容れない側面をもっているが、
同時に響き合う側面をもっている。
その絶対矛盾のなかで、私たちは
ときに合理性のもとにあり、ときに非合理性のもとにあり、
理解が可能になったり、またどうしても理解できなくなったりするが、
それらすべてが一体となって響くオーケストラを
世界としてとらえることもできるのかもしれない。
絶対矛盾的自己同一としての、常に響きあいが生成していく世界。