死生学ノート1

自然をどうとらえるか

(2006.1.10)

 自然という言葉の由来を探っていくと、老子の道家思想にたどり着く。
老子によれば、自然の「自」は「自ら」とか「自分」を指し、「然」は、
「状態」を表す。つまり、自然は自らの状態、本来のままの状態、もっと
はっきりいえば、自分本来の姿である。…
 自然の「自」はみずからとおのずからというように、ひとつの字で異な
った読み方をする。「自」は自ら「為」に執着するものではなく、自ずか
ら「無為」に達したうえで、天地自然の理法にひたすら従うこと、言葉を
代えていえば、無為の為こそが自然であるとする。
 …このことは、決して自ら何もしないということではない。自らの業に
固執せず、自分の果たすべき責任や役割はきちんと果たし、しかも、己の
業を絶対化せず、自ずから開かれていくために大いなる力に委ねること、
それが自然である。老子は「成人は為さずして成す」といっている。…
 このような考え方は、西洋の神概念に相通ずるものがあり、また親鸞の
「自然法爾」という思想に通底するものがある。自然法爾とは、自らのは
からい、つまり「為」をすべれ捨て去って、阿弥陀の救済に一切委ね、自
然念仏に徹することによって、人間は真に悟りの境地に達することをいう。

 自然という言葉は、ギリシア語ではフィシス(physis)、ラテン語ではナ
トゥーラ(natura)であり、これらの語は「もう一度生き直す」という意味
を持つ。…
ギリシャ語のフィシスは、生まれ、育ち、死に、再生するという生き物の
変化を自然としてとらえていて、自然=フィシスを研究する場合、人間を
含む有機的な生き物の動きや変化の中に介在する原理を追求することに力
点を置く。ギリシャ人にとって自然は、自(みずか)らではなく、人為が
かかわらない自(おのずか)ら生じたもの一般を指す。…
 ギリシャ人は、人間と自然を、対立するものとしてではなく、生命的自
然の一部としてとらえていた。さらに神ですら、自然を超越するものでは
なく、自然の中に内在するものとしてとらえていた。つまり。彼らは自然
を、人間や神をその内に含む包括的総合体であると認識していたのである。
(平山正実『はじまりの死生学』春秋社/P.7-10)

なぜ「死生学」についてのはじめに「自然」のことがでてくるのかというと、
自然はある意味でいのちそのものであるともとらえられることが多いからである。
人間は死ぬと自然に還っていくという、
いわばアニミズム的なイメージをもっている人も多いのではないだろうか。
そして大自然のなかでいのちをとりもどすことができるという人もいる。

「自然」についての日本と西洋のとらえかたの違いについては、
すでに川崎謙『神と自然の科学史』(講談社選書メチエ345)をご紹介したこ とがあるが、
「自然」ということばが用いられているとき
それが本来何を意味しているのかが顧みられている機会は少ないように見える。

自然を大切に。
自然を守れ。
そういう意味で自然を使うとき、
その自然というのは、人工ではないものというほどの意味でしかなく、
しかもそれを対象化してとらえているところがある。
しかし、 日本人の多くは、study natureを訳すときに
「自然を学ぶ」ではなく、「自然に学ぶ」とするらしい。
そこに不思議なねじれて曖昧になったとても日本的な見方があるように見える。

日本では明治の頃までは、自然というと、
「おのずからしからしむる」というように、
人為ではどうすることもできない理法のようなものとして
とらえることが多かったそうである。
上記引用にもある老子の「無為自然」のように、
西洋の神概念に相通ずるものがあったのかもしれない。

それに対して、現代の西欧では、study natureは
「自然を学ぶ」というように、客観化・対象化可能なものとして
natureをとらええているようだが、
本来、ギリシアにおいては、
人間と自然を対立的にとらえることはしていなかった。

その自然は、いのちを生み、育むものでありながら、
同時に、自然災害ということが起こったときには、
限りない暴力性さえ秘めている。
それはひょっとしたら、神の怒りではないか…など。

われわれがその一部でもある自然とどのようにつきあっていくか、
また自然のなかにある霊性や聖性といった観点や
生者と死者を媒介する自然の姿など、
自然をどのようにとらえるか、
それは「生と死」を見ていくうえでも
非常に重要な示唆を与えてくれるはずである。