死生学ノート0

平山正実『はじまりの死生学』

(2006.1.6)

■平山正実『はじまりの死生学/「ある」ことと「気づく」こと』
 (春秋社/2005.12.15.発行)

「いのち」「生命」というのは至上価値であるかのようにいわれる。
その次には、「お金」という人もいるだろうか。
しかし、生きているということが価値を持つのは、
その「背後に隠されている『存在』」の重要性だと著者は本書で力強く述べている。

もちろん、「いのちを国家に捧げる」というような錯誤はここにはまったくない。
この点は注意が必要で、「いのちよりも大切なものがある」というと
自分のなかの空虚を埋めようとして、「国家」や「民族」などのような
集合的なありようしか思い浮かべられない人たちもいるからだ。
それらを最良の意味での自己犠牲や献身と錯誤してはならない。

読み進めながら、本書は、ぼくの知るなかで、
「生と死」を総合的に考えるための最良の手引き書だと確信するようになった。
もちろん、シュタイナー的な神秘学を除けばということだが、
ある意味では、本書は神秘学の導入としても最良の一冊となるかもしれない。
逆にいえば、本書の内容をしっかりと理解できる人でなければ、
シュタイナーのいっていることも理解できるはずはないのではないかとも思う。
トポスの推薦書の筆頭にあげたいくらいである。

生まれること、老いること、病をえること、死ぬこと。
それはたしかに人の「苦」の代表的なものには違いないが、
それらを超えていくための「解脱」というのを
「生」からの逃避としてではなく、
むしろそれらの四苦ゆえにこそ、「生」は輝くのだ、ということへと
「死生学」は方向づけられなければならない。

著者は、「『はじまりの死生学』とは創造と希望の学問でなければならない」という。
「死生学」が、つまりは、四苦から学ぶことが、破壊と絶望になっては何にも ならない。
ただただ「生命」にしがみついたり、DNA主義になったり、
お金や名誉といったものにしがみつくことでは、
四苦はいかに詭弁を弄しようが、破壊と絶望へと向かうしかないのである。

本書に盛られている内容はとても大切なものばかりなので、
ほんとうにひさしぶりになるけれど、しばらく「ノート」でそれを追ってみたい。
その導入として、「あとがき」にある本書のコンセプトをまず引用紹介してお くことにする。

 宇宙の中にあって神と自然、神と人、人と人、人と自然、自我と自己とは、
相互に対決と共感、分裂と調和、闇と光との緊張関係ないし非連続的関係の
中にある。このような緊張、葛藤、相克の中で、「存在」の重要性が浮かび
上がってくる。そして、この緊張した「関係」を結びつけ、連続させ、響き
合うように促す働きをするのが神が与えるスピリチュアリティ(精神性)で
ある。
 人は緊張と危機の中で覚醒し、そのスピリチュアリティの存在に気づかさ
れる。そのスピリチュアリティは、「上への超越」を志向せしめる。また、
神が人のために祈る。すなわち「祈ること」と「祈られること」、さらには
「問うこと」と「問われること」の大切さを教える。また、下への超越をう
ながす。ここにおいてスピリチュアリティは弱き者、小さな者に配慮するこ
ころを与える。
 またそれは「横への超越」へと向かう。すなわち、過去から現在、未来へ
と広い視野と展望をもって、神・人間・自然の絆を堅く結びつける役割を果
たす。そして神によるスピリチュアリティは「内からの超越」すなわち「自
我から自己への超越」を可能にする。即ち、我執としての物欲や性欲や支配
欲といった煩悩に囚われることから解放させてくれる。
 このように、スピリチュアリティが自由に働くためには、こころが開かれ、
覚醒している必要がある。そこに至るまでに長い間、修羅場を通過しなけれ
ばならない。それは人間にとって大きな試練である。死や病という暗いトン
ネルを経て、スピリチュアリティの覚醒が生ずる。そして、新しい「生き生
きとした生」が始まる。ここに筆者が説く「はじまりの死生学」の原点があ
る。生の終わりとしての病や死や弱さが、まさに生のはじまりとなる。その
意味で、「はじまりの死生学」とは創造と希望の学問でなければならない。
 それは「いかに死ぬか」(Quality of Death)、あるいは「死なせるか」を
問う学問ではなく、「いかに生の質を高めるか」(Quality of Life)を問う学
問である必要がある。
 しかもそれは、「どのようなことをするか」(Doing)を問う学問ではなく、
人間としての「存在(Being)」、つまり「いかに生きるか」という「存在」
の「あり方」への「気づき」をうながす学問であるべきなのだ。
(P.253-254)