「身体を通して時代を読む」ノート

 

1 非中枢化
2 矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う
3  教えてはダメ
4  間合いをとる呼称としての「先生」
5  ダブルバインドと権力
6  矛盾とどう向き合うか
7 小さな井戸のなかの緊密な共同体意識
8  謎が深まる
9 プラス思考の落とし穴
10「学び」とは別人になること
11 問いの成立へ
12 進化の仕方を進化させる
13 数値化される教育
14 自己の外にでること
15 要の位置
16 する・される
17 マニュアル依存症からの脱却

 

「身体を通して時代を読む」ノート1

『非中枢化』

2006.7.22.

内田/個々の身体部分がきれいに中枢的に統御されているのではなくて、
個々が自由に自律的に動いているんだけれど、自然にネットワークがで
きて、自然に足並みが揃うというような、その「自由なんだけれど秩序
がある」というイメージが僕は好きなんです。
甲野/だから中央集権的な感じではない形で、一斉に動くようにしたい
わけです。私がよく言うのですが、政治経済のことを考える時に、一番
参考にすべきなのは、人間の身体の構造だと思うのです。人間の身体の
部分には、目とかヘソとか尻の穴とかいろいろありますが、目が「俺の
方が身分が上だ」と尻の穴に対して威張るとかいうことはないわけです。
目は、位付けしたがる人間感覚では位が高そうに見えるけれども、身体
からみれば全部必要なわけですから。(…)
内田/さきほど学校教育の話に触れましたけれども、学校教育とその中
にはめこまれたかたちの競技的身体観というのはかなり中枢的なものじ
ゃないかという気がするんです。中枢に脳があって、四肢に運動の命令
を発信する。(…)
「中枢の指令に即座に従う四肢」というのは、学校教育の場では、「教
師の指令に即座に従う生徒」と構造的には同一なんじゃないかと思うん
です。そのことが無意識的にわかっているからこそ、学校は「運動神経
のいい子ども」を育てることに投資を惜しまない。甲野先生がおっしゃ
るような自律的な身体運用をする子どもは、学校体育の場ではほとんど
構造的に「運動神経の悪い子ども」に類別されてしまう。自律的な身体
運動ができる能力というのは、今の学校教育では数値化もされないし査
定もされない。むしろ、そういうものは「ない方がいい」と思われてい
るんじゃないでしょうか。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.37-39)

意識的であれ無意識的であれ、中央集権的な組織や管理を望んでいる人は思いの外多い。
学校で、愛国心を評価するための数値を導入するようなことも、そこからくる。
なにかを「評価」する必要があるならば、
それを「中央」でも標準的に管理できるような「数値」を導入したほうが、
管理する側としては、自分で考え、判断する必要がなくて、楽なのだろう。
楽だというのは、末端のロボットであったほうが、自己責任を問われないですむということ。

スポーツ振興がさかんにおこなわれ、
スポーツ的でない動きのシステムが軽視されるのは、
そのほうが、「中枢の指令に即座に従う四肢」、
「教師の指令に即座に従う生徒」をつくるために好都合だからにほかならない。

そこでは、「自由」は、そうした意味での「秩序」に逆らう実質的に危険思想となる。
「自由」は「秩序」と矛盾するものではなく、
むしろ高次の意味での「秩序」のために不可欠であるにもかかわらず、
低次の意味での「秩序」を保守するために、排除されてしまうのである。

ぼくは、小さい頃から、いわゆる競技的なスポーツになじめなかったけれど、
木に登ったり、海にもぐって採集したり、山に登ったりすることには親しみを感じていた。
学校教育では、前者は評価の対象になるが、後者はもちろんまったく対象にはならない。
ナイフを使いこなしたり、罠をしかけたりするような遊びも、教育とはねじれの位置にある。

なぜ、ラインをひかれた100メートルだとかのラインの横を
よーいドン!で懸命に走らなければならないのか、いまだによくわからない。
少なくとも、ぼくにとっては面白い身体運動とはいえなかった。
もちろん、それを楽しいと感じる人はいていいし、それはそれぞれの自由なのだけれど、
学校では、懸命に走らなければダメだとされる。
しかもそういう強制的な身体運動の後は、身体全体としてはバランスを欠いてしまい、
悪くすれば、どこかに故障を起こしてしまうこともある。
低次のそうした秩序に従わせるために、数値化できない高次の秩序のための運動は
まったく顧みられないことになる。

「個々が自由に自律的に動いているんだけれど、自然にネットワークができ」
「自由なんだけれど秩序がある」というイメージを持てるか持てないか。
持てない人は、低次の秩序形成を指向し、組織をつくり、それを保守し、
持てる人は、目に見える形ではないとしても、高次の秩序形成への自由を模索するのだろう。

しかし、世の中は、高次の意味で目に見えないものを軽視しがちで、
軽視しがちであるがゆえに、低次の意味しかもたない目に見えないものを盲信し、
対象も肥大化させてしまうことになる。

 

「身体を通して時代を読む」ノート2

『矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う』

2006.7.22.

甲野/私は武術を「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」と説いていま
す。武術家はすごく敏感でなくてはいけないのですが、それと同時に、
驚かない、動じないというのは、ある面からすれば鈍いとみえるような
対応も必要なことですからね。つまり生起するさまざまな状況に振りま
わされないためには、矛盾した存在であることが必要だということです。
内田/そこがむずかしいところだと思うんです。胆力は「驚かないこと」
だというと、鈍感になることだと勘違いする人がいます。鈍感な人間と
いうのはたしかに細かいシグナルには反応しないので、ふだんは泰然自
若としている。でも、生死の境のようなところで起きる地殻変動的な衝
撃には対処できない。ある日いきなり「驚愕の閾値」を超えた入力がド
カンと入ってくると、これまで「驚いたこと」がないので、「驚き方」
がわからない。こういう人は「驚かされる」。変化に対して受け身にな
っている。
 それに対して敏感な人というのは、毎日毎時あらゆる新しい入力があ
るたびに「驚いている」。だから、「驚き方」に精通してくる。こうい
う人は、「驚く」けれど、もう「驚かされない」。「驚く」という動詞
が能動態となっていて、受動的なものとしては経験されない。だから、
日常的なフレームが壊れるような激動に際会しても、きちんと「驚いて」
対処できる。胆力というのはどういうことじゃないかと思うんです。ま
めに驚く人間はあまり驚かされない。矛盾してますけど。
甲野/その矛盾していることをそのまま体現しているのが命の精妙さだ
と思うのです。私は先程、運命が決まっていて同時に自由だと言いまし
たが、例えば、禅の公案だってものすごく矛盾していることを突きつめ
ていって、思考を飛び越えたところを感得させるようにするでしょう。
やはり命の構造のおもしろさは矛盾そのものだと思うのです。「矛盾を
矛盾のまま矛盾なく取り扱う」、そういうことを体感を通してやるとい
うことに武術の意味があるのです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.44-45)

アリストテレスは哲学のはじまりを「驚くこと」だと言ったそうだ。
ここでは、「胆力」とは「驚かないこと」だというが、
いつも驚いて、驚き方に精通しているからこそ、「驚かされない」のだという。
能動態としての「驚く」に対して、受動的な「驚かされる」。
そのことから考えると、哲学者が驚くのは能動的な驚きであって、
決して受動的なそれではないのだろう。
哲学者は、「そういうものだ」「そんなことあたりまえじゃないか」
と多くの人が考えたりしていることにも、
能動的に驚くことができる人のことだということができるだろう。

それに対して、「胆力」がないというのは、
鈍感なために「驚き方」に慣れていない。
日々起こっているさまざまに驚くことができていないために、
大きな「入力が」ドカンと起こると、受け身になって「驚かされる」。

このことを思考力に置き換えてとらえてみると、
いつも能動的な生きた思考力を鍛えておくと、
なにか常識を超えたことが起こったときにも、
受動的にではなく、能動的に考えることができるということができる。
それに対して、考えることをふだんからおこなっていないと、
常識を越えたことに対して能動的に考えることはできないだろう。
そして、その際にできることは、いわば「迎合」でしかない。
「みんながそうだから自分もそうだ」というしかなすすべはない。
レミングの大移動のような状態になりかねない。

さて、いつも驚いているがゆえに驚かされないという矛盾した状態は、
「驚く」という言葉の上では矛盾のように受け取られるだろうが、
実際の生きた体験としては、決して矛盾とはいえないだろう。
そういうことは決して少なくはない。
論理的に矛盾しているという2つのことを
「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ことは思いの外多い。
実際、そうでなければ生きていくことはできないし、
論理だけに固執するのが、「知恵」だとはいえない。
もちろんそれは、処世術的に云々ということとは別のことである。

シュタイナーも、一見矛盾していることを高次の意味で
矛盾を超えて扱うことを常としている。
たとえば、『哲学の謎』の記述についても、
とりあげる哲学者の思考それぞれの記述の間に矛盾を見ることは容易だけれど、
まさに「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ような姿勢を貫いているように見える。

また、「荘子」の「斉物論編」に「道枢」という観点が示されているが、
ある意味で、この荘子の考え方も、
「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ことと通底しているように思われる。

彼れと是れとが、その対立を消失する境地を道枢という。枢(とぼそ)
ーー扉の回転扉は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の
方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転
をつづけ、非のまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はそ
の意味を失ってしまう。先に「章かな知恵をもって照らすのが第一であ
る」といったのは、このことにほかならない。
(世界の名著『老子 荘子』中央バックス より)

 

「身体を通して時代を読む」ノート3

『教えてはダメ』

2006.7.24

甲野/だから教えてはダメなのですよ。言葉だって教えられないでみん
な覚えるじゃないですか。ある体育雑誌に書いたのですが、いい教師と
いうのは、相手が自分で気づいたと思わせるように指導しないといけな
いのです。そうするか、しないかで身につき方が大きく違うものなので
す。優れたセールスマンは絶対に押し付けないものです。結論は相手に
出させるのです。そういう結論に誘導するための材料だけを与える。そ
うすれば、人は自分で出した結論には積極的になりますからね。結果と
してよく売れるということになるわけです。
(…)
内田/(…)たとえば先生が最近よく教えられている介護技術の場合で
も、相手の手足や腰の痛みに瞬間的に先生自身の身体が同調していない
と、「痛みを感じさせない」操作ということはできませんよね。介護す
る自分がいて、介護される相手がいて、そのそれぞれが孤立していて、
自分が主体で、相手が対象である「介護する」という他動詞的な働きか
けをしようとしたら、うまくいかないと思うのですよね。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.48-50)

相変わらずぼくには「教える」こと、「教えようとすること」への拒否感がある。
そういってしまうと、教育を大切なことだと思っている方のうちで、
趣旨をご理解いただいている方はうなずかれるだろうし、
そうでない方にとっては、理解不能なところがあるだろう。
おそらくその両者の間には、教育に対してもっている基本姿勢において
相反するところがあるのではないかと思われる。

教育する人がいて、教育される人がいる。
これは一見あたりまえのように見えて、決して単純にはとらえることができない。
ある人がある物体に働きかけてその物体を動かすようなあり方を
教育について適用することはできないからだ。
極論をいえば、ある人がある物体に働きかけてその物体を動かすときにも、
つまり、たとえば私がある対象を見るということに関しても、
私とその対象との間は決して一方通行の関係ではありえない。
まして、況や教育においてをや、である。
おそらく自分が教える主体で相手が教えられる対象であるという姿勢の人においても、
「教えられる人」をそういう対象としてとらえている気持ちはないのだろうが、
「教えてはダメなのですよ」という言葉に頷く人以外は実際のところ
少なくとも「教える」ということが意識化されていないことは多分にありえるだろう。

上記の引用で、
「「介護する」という他動詞的な働きかけをしようとしたら、うまくいかない」とあるのと同様に、
「教える」という他動詞的な働きかけでは、
ある知識を与えるということを教育とみなすとすれば別だが、
教育は基本的に成立しないのではないかと思える。
もちろん、ここで知識を与えるというときの知識は、
数値化・点数化可能な知識という意味での限定付きの知識である。
これは、愛国心を数値化するということもまたしかり。

このことは、教師が不要だということではなく、その逆で、
教育できる教師があまりにも少なく、
おそらくはシュタイナーもそういう意味での教師の必要性を
深く感じるがゆえに教育への示唆を行なったのだといえる。

もちろんそこには、現実の教育システムとの大きな矛盾が生じてしまう。
「では、どのように生徒を平等に評価すればよいのか」対して、
その「平等」「評価」という点を、だれにとっても納得させられるかたちで
提示することはできないのはもちろんだし、
校長とかいった中心・中枢からの指示というのもありえないわけで、
その点でも、教師に求めるものがあまりにも大きく、
それを実現できる能力の養成の困難さもそこに大きく立ちはだかる。
そしてそのために必要な教師の自己教育は、
外的に数値的に評価されることで実現可能な能力に比べて、
数値化できない能力のほうを中心にすることになる。

その数値化ということの基礎にある視点が結局のところ
「自分が主体で、相手が対象である」という認識図式であって、
その図式を離れない限り、他動詞的な教育を変えていくことはむずかしいのだろう。

 

「身体を通して時代を読む」ノート4

『 間合いをとる呼称としての「先生」』

2006.7.24

甲野/あくまでも基本的にはですけど、荘子にあこがれ、猫のように自
分の自由を束縛されることが嫌いな人間ですから、「自分が嫌いなこと
は他人にもしたくない」というごくごく単純な理由で、ガチガチの師弟
関係のようなものは作りたくないというか、要するに苦手なんですね。
 ただ、最近はけっこう多いようですが、自分が“先生”と呼ばれるこ
とを嫌悪して「先生と呼ばないように」と、講演会の時なども司会者に
念を入れる方があるようですが、私にそういう趣味はありません。それ
は、私自身深く尊敬する方に対しては、そしてその方が年上である場合
などは特に「先生」と呼びたくなるなる衝動があるからで、これもまた
先ほどの例と同じで、私自身先生と呼びたくなる衝動があるのに、他人
にそれを禁じる気はしないということです。(…)
内田/(…)よくハリウッドなんかで「ミスター……」と呼びかけると、
「おいおい、そんな他人行儀はやめてボビーと呼んできれ」というよう
な返事が返ってくるというのがありますよね。僕あれキライなんです。
相手をどう呼ぶかということは呼ぶ側と呼ばれる側のデリケートで緊張
したやりとりの中で、ほとんど本能的に選択される「距離感」の表明で
すよね。ある意味では、「間合いを取る」という真剣勝負の場でもある
と思うんです。そういうときに「誰が相手の時も、いつも同じ間合い」
で対応することって、ありえないと思うんです。遠間から敬遠した方が
いい相手もいれば、近間に入ってなごんでしまう方がいい相手もいます。
その点で、「先生」はなかなかよくできた呼称だと思いますよ。「自分
に対して、何らかの権力を行使して、自分を害する可能性のある人間」
を遠ざける呼び方ですからね。だから、代議士とか医者とか弁護士とか
大学の教師とかを「遠間」に保つ、自己防衛の呼びかけが「先生」だと
思うんです。「私よりも先に生まれた人」との時間的な距離感を空間的
に読み換えることで「間合い」を取っている。そういう自己防衛のプロ
テクターなんだから、こっちから「そんなもんはずして、無防備になれ」
というのはちょっと無理筋じゃないかなと思うんです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.58-60)

橋本治の敬語に関する本で、敬語というのは相手を敬するというよりも、
相手と距離をとるためのものだという話がでていたと記憶している。
この視点には、思わず頷いてしまったと同時に、
「敬語というもなかなか使えるな」と思わずほくそえんだものだ。

ここの引用でいう「先生」も、そうした戦略的な敬語の使い方と同様に、
「使える」呼びかけだということが腑に落ちた。
ぼくは必要に迫られない限り、
そしてむしろ気安い関係のなかでのユーモア表現として使うとき以外に、
「先生」という呼称を使うことに抵抗を感じてきたのだけれど、
たしかに、「間合い」をとるためにとても有効なものであるのは確かである。
これからは、変なこだわりはすてて、「間合い」をとりたいときに、
「先生」を随時使えるよう意識を変えていこうと思っている。

敬語やこの「先生」という呼称だけではなく、
言葉や言葉に準じたさまざまなコミュニケーションのための手法を
武術の技のようなイメージでとらえていくと
それらが楽しく習得できるかもしれない。
おそらくぼくには、これまでそれを意識的な技として
開発、習得し、それを磨いていこうという視点に乏しかったのではないかと反省している。
なんとか無難にはやりすごしてはいてある程度の技は使っているつもりではあるにしても、
つまり、あまりに無防備だったのではないかということ。
(まあ、無防備なのがぼくらしいといえばいえるのだけれど)

コミュニケーションにおいては、その伝える内容そのものよりも、
むしろノイズが重要な働きをするという考え方があるが、
「間合い」とかというのもある種重要なノイズなのだろう。
相手とどのような関係においてコミュニケーションがしたいのかによって、
名刺などのツールや真面目な顔も必要だし、満面の笑顔や握手も必要になる。
それらを政治家のようなそらぞらしさで使う必要はないけれど、
自分なりの技として使い分けていく視点は重要である。
「裸のつきあい」というのもあってそれはそれで結構なことだけれど、
実際「裸」にもさまざまなグラデーションがあってしかるべきだし、
がちゃがちゃと鎧をまとう必要もあまりないだろうが(必要なときは必要だが)、
まあ、必要以上に傷つかないですむための防備をしておく視点も、
ある程度意識的に必要なことだとあらためて実感した次第。

 

「身体を通して時代を読む」ノート5

ダブルバインドと権力

2006.7.24

甲野/私は全体の中で、個人個人の能力を独立させるようにするのが研
究が進むために有効な方法だと思っています。(…)
 私がかねてから懸念していた、子どもを怒鳴り散らすスポーツ指導者
や、部活動を私物化している指導者にも、この問題があると思います。
彼らにとっては、自分たちが一番いばっていられるか、自分たちの権威
を守れるかが常に一番の関心事なのでしょうから。
内田/僕はどの分野でも実はスポーツ指導者というのがあまり好きじゃ
ないんですけど。それはその「いばり方」に非常に有毒なものを感じる
からなんです。あの人たち、「ダブル・バインド」をすごく悪用してい
るような気がするから。(…)
 ダブル・バインド(二重拘束)的コミュニケーションでは、メッセー
ジを間違って解釈すると罰せられ、正しく解釈しても罰される。例えば、
試合に負けたあとに感得が選手達に「どうして負けたのかわかるか?」
と訊くような場合がそうです。もちろん、この問いに間違った答えをす
ればたちまち罰せられるのはまあ当然なんですけど、問題なのは選手た
ちが正解しても罰せられるということです。選手が負けた理由について
正しい答えをした場合、監督は必ず「なぜ、負ける理由がわかっていな
がら負けたのだ」と追撃してきます。だから、選手たちは必ずどういう
ふうに答えても叱責される。設問に一回でも正解した場合には、誤答す
るまで執拗に問いが続いてかえって不快が増すということが無意識的に
わかっていますから、うつむいて無言のままこの心理的な拷問に耐える
ようになります。
 メッセージをどう読んでも罰せられるというダブル・バインド的コミ
ュニケーションの条件づけは、権力関係を打ち立てようとする人間にと
ってはすごく効果的なんです。だから、短期的に権力関係を構築したり、
指揮系統を明確にすることを望む人間は、無意識的に人をダブル・バイ
ンドに追い込んでしまう。(…)
 自分の言うことに服従する選手を作ること、目先の権力関係を構築す
ることに忙しくて、自分のやっていることが子どもたちの人間的資源を
どれくらい傷つけているか、この指導者たちはわかっていない。そうい
うスポーツ指導者が日本には多すぎますよ。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.72-74)

スポーツ指導者によくみられるこうしたダブル・バインド的コミュニケーションは、
そのまま仕事のシーンなどでもよくみられるきわめて日常的なものである。

こういうダブル・バインド的コミュニケーションは、
人から人へ継承されていく傾向にあるようだ。
そういうばかげたコミュニケーションを事とする人を
自分がそうされたからおまえにも、という形で継承したり、
しかも場合によっては、そういうファナティックな人物を尊敬するがゆえに、
その方法を伝統的に継承したりするような馬鹿げたことさえ多くあって、
そういう方法はおそらく減ってはいないように見える。
ダブル・バインド的コミュニケーションは再生産されていくのである。

禅寺に入って、禅問答をするわけではないのだから、
やはりこうしたコミュニケーションの仕方はやめておいたほうが、
人をスポイルしないですむように思うのだが、
たとえば軍隊などで人を育てるときなども、こうしたスポーツ指導者と同様、
「いままでのやりかたはここでは通用しない」とばかり、
ダブル・バインド的コミュニケーションを使って
ある種の人格改造が行なわれるのが常であるように、
人を支配するために有効な方法というのは、なくならないということかもしれない。

ぼくは馬鹿正直なものだから、小さい頃から、
「正解」を馬鹿正直に答えてその都度叱責される体験を繰り返してきた。
学校でもしかり、家でもしかり、そして職場でもしかり。
そして「文句が多いやつ」という烙印をおされる傾向にある。

もちろん、「正解」をシュプレヒコールするのがダサイのは重々承知しているし、
「正解」を正しいとか思いこんだりもしていない上に、
叱責に逆らって体当たりするほどのパワーもないので、
できるだけそういう状況をすり抜けるべく身をかわす術を事としてはいる。
しかし、どうもときおり直線的なダブル・バインドの問いが向かってきたときには、
どうもムキになって「正解」 で応戦してしまうことになることが多い。
あまりに芸も技もない応戦というのは、ほんとうに情けないかぎりである。
しかし街でヤクザにからまれそうになったときには、
一目散に逃げ去るのがいちばんなように、
やはりそういう場をできるだけつくらないこと以外に有効な方法はなかなか見つからない。

ちなみに、ダブル・バインド的コミュニケーションに近い
高等なコミュニケーションで人をスポイルする面白い例が
内田樹『子どもはわかってくれない』(文春文庫)にあるので、
参考までにご紹介しておきたい。
警察官の取り調べとやくざの恐喝の両方にあてはまるやり方である。

 彼らはふつう「二人のペア」で登場する。
 そして、一人が「こら、われ、なめたらあかんど!」と頭ごなしに怒鳴りつけ、
一人が「そんなに大きい声出しよるから、このお兄ちゃんびっくりしとるがな。
ま、兄ちゃん、気ぃ悪うんといてや」というふうに「懐柔」に出るのである。
 そして、この「懐柔派」の方につい心を許して、「どないでしょ。あちらの方
あんなふうにおっしゃってますけど、何とかなりませんか?」と和解のためのネ
ゴシエーションの回路を立ち上げようとしたその瞬間に、先ほどまでにこにこし
ていた「懐柔派」のおっさんその人が表情を一変させて、「何、甘えたことほた
えとるんや。こら、殺されっど。われ」と凄み、「恫喝派」だったはずのあんち
ゃんが今度は、「ま、ええがな。そこまで言わんと」と助け船を出すのである。
 この絶妙の「役割交換」による「二人芝居」を前にして、「被害者」は、ゆっ
くりとカフカ的不条理のうちに沈み込み、やがて自尊心と判断力を失い、彼らの
「言うがまま」になってゆくのである。(P.280)

こういう不条理に負けないためには、いったいどういう技があるのか、要研究である。

 

「身体を通して時代を読む」ノート6

『 矛盾とどう向き合うか』

2006.7.26

甲野/単純に、平板に、マニュアル的に「プライドを持ちなさい」「弱
い者いじめはいけないよ」と言いながら、「差別をしてはいけない」と
いうことを言い過ぎて、その裏にある矛盾について全然考えないという
のはおかしな話です。つきつめてみれば、絶対矛盾していることですか
ら。その矛盾についてどう考えるのかという討論が必要なのです。学校
の試験とか小論文に出してもいいと思います、それをどう考えるかとい
うことを。
 小学生の作文で、「妹が生まれてきたおかげで、お母さんの愛情も十
分受けられなくなったし、美味しいものがあっても半分わけしなくては
いけない。ほんとうに妹には困ったもんだ」みたいな作文を書いた小学
生がいたら、先生がいちばん最後に「でも、やっぱり大好きな妹」と書
き加えてしまった、という話がありました。とにかく体裁よく辻褄合わ
せをさせるのではなくて、その時その子が感じたこと自体を掘り下げさ
せてこそ教育と言えると思うのですが、それができる器の教師も少なく
時間もないのでしょうか。しかし、そういう手作りの綿密なサポートを
していかないと、人間が壊れていくという現代の状況がますますひどく
なっていくのではないかという気がします。
 人間の言うことって、たいてい矛盾をはらんでいるもので、その矛盾
とどう向き合うか、どう考えるかといったことを教育の過程で教えない
といけない。当然のことですが、世の中はマニュアル的に「こういうと
きにはこうしましょう」と教えられないことがたくさんありますからね。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.109-110)

人は目の前の矛盾に耐えられない。
だから、目の前にあるものを矛盾のないものとして見ようとする。
けれど目の前にないからといって、矛盾がなくなったわけではない。
ときに、矛盾の雪だるまは大きくなって転がっていき、どこかで破綻したりもする。

矛盾を乗り越える方法がないわけではない。
もっともわかりやすい方法は、「そういうものだ」ということで、
それは自分の責任範囲にはない決まり事だとしてしまうことだ。
マニュアルというのも、ある意味ではその「そういうものだ」のひとつなのだろう。

マニュアルは、矛盾から目をそむけるために好適なツールなのである。
マニュアルは「こういうときにはこうしましょう」というもので、
それに従っていさえすれば、とりあえず矛盾に直面しなくてもすむ。
というよりは、たとえ矛盾があったとしても、それは自分の問題ではないのである。
だって、そうなっているんだから、と。

しかしそういう方向性は、矛盾をとおしてなにかを学ぶという方向ではない。
そこに矛盾があるということにまず気づき、向き合うということからしかはじまらない。
もちろんその前提にあるのは、物事を論理的に考える、
筋道だって考えることができるということである。
そうでないと、矛盾が矛盾であるということがそもそもわからない。

問いのなかにはすでに答えが含まれているともいわれるが、
そこに問題があるということに気づくことが出発点となる。
そしてある問いを持つことで、
そこからまた新たな問いを見つけ出すことが可能となる。
その問いの展開というのこそ、マニュアル発想とは対極にある矛盾への取り組み方である。

 

「身体を通して時代を読む」ノート7

『 小さな井戸のなかの緊密な共同体意識』

2006.7.26

甲野/いまは、周りの者は関係なくて同世代の中だけに一種の共同体意
識がある。それになんとか外れないようにしようという感じになってい
る。だったら他は関係なくて独自の生き方ができるかというと、そうで
はない。
内田/均一性志向ですから。同世代集団はいちばん均一性が高いから、
そこに凝集していると上下世代集団とは「ニッチ」がずれる。そういう
ふうに発想するともう手の着けようがないんです。(…)
甲野/なぜそうなるのかについて以前養老先生と対談したとき、日本は
共同体意識がものすごく強いからという話になったのです。共同体意識
が強いのもひとつの偏見なのかもしれない。
 世代的にすごく狭い人間と同調しようという、そういうふうに育って
社会に出て、自分がパッとばらけて会社に入ると自分に自信がなかった
り、落ち込む人の話を聞くことがあるのです。なぜ自信がないのかとい
えば、「人間が生きているとは何か」という本質的なことについて、み
んな考える暇がないんですよね。たわいもない話に必死になる。それに
落ちこぼれないように必死になっていたために、本質的なことを考える
時間が全然なかった。日本の教育制度が悪いせいもあるのでしょう。
(…)私が対談したことのある和光大学の先生の話では、小学生に理科
を教えるための文部科学省のトップは、分子生物学の専門家だそうです。
そういう人は、小学生が動植物や鉱物を観察し、理科に親しむために必
要なルーペの使い方すら知らないそうです。それで小学生に理科をどう
教えるかという部門のトップにいるんですよ。こんなおかしなことが、
山ほどあるようです。いったい誰にどう言えばその辺りが変わるのだろ
うかと思うのですけれどもね。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.112-114)

井戸の中の蛙。
小さく掘られた井戸のなかの緊密な共同体意識。
そんな井戸が無数に並んで隣にある同様の井戸と隔絶されている。
かつての村意識が、同世代のなかのさらに小さな集団のなかで閉じている。
外の世界のことは、そこでは捨象されてしまう。

それは若者の世代だけのことではなく、
日本のあらゆる共同体意識のなかでみられ、
むしろその共同体をはみ出ることに対しては、
まさに村八分的な意識が向けられてしまう傾向にある。

「ご専門」の世界もまたしかり。
真面目な人間は決められた窓からしか外界を見てはいけないのである。
四角に決められたらその世界は四角の枠のなかで、
丸に決められたらその世界は丸の枠のなかで表現される。
空が見えなければそこには空はあってはならず、
大地が見えなければそこには大地があってはならず、
ときにそういう認識様態を保守するために
「科学的」であるという言葉が使われ、
その認識の枠組みと手続きをはみ出してしまえば、
それは「非科学的」になってしまう。
その態度そのものがきわめて「非科学的」なのだけれど、
それに反すると、その共同体から放逐されてしまうのである。

数値化・点数化できないものが評価されない教育も
またそういう共同体意識の強化に大いに役に立っているのだろう。
小さく掘られた井戸のなかにいれば、
それ以外の世界は存在しないことにしてもなんとかやり過ごせる。
しかし自分のいる場所を意識しはじめるとそうはいかない。
だから、「人間が生きているとは何か」とかいうような
本質的な問いを抱かないように細心の注意が払われることになる。
もちろん、生涯にわたってそういうわけにもいかないわけで、
それまで蓄積してきた知識で対処できないとき、
そういう人は、いきなり馬鹿馬鹿しいまでに稚拙になってしまう。
重要なのは、データ蓄積のできる知識をため込むことではなく、
まだわからないことへジャンプできる姿勢なのだけれど。

 

「身体を通して時代を読む」ノート8

『謎が深まる』

2006.7.26

内田/甲野先生は「私は修行途中であるから常にスランプがない。いつ
も成熟プロセスの過程にある」とおっしゃっていましたよね。僕は素晴
らしい考え方だと思います。なぜそれが可能なのかというと、甲野先生
が設定している目標そのものが「よくわからないもの」なんですよね。
目に見える、計量できる達成目標があって、それを目指して一歩一歩進
んでいく……というふうにプロセスが設定されていない。一歩進むごと
に目標が変わるように、ひとつ答えを出すたびに次の問いがはじめて示
されるような仕方で問題を解く。甲野先生の場合は、目指しているもの
が「謎」なんですね。ゴールはブラックホールみたいなもので、かたち
あるものとしては絶対に手が届かない。
 結局、そこに成熟のプロセスに身を投じることができる人とできない
人との分岐があると思うんです。目に見える達成目標を掲げて努力する
人間と、解けない謎を追究する人間の違いだと思うのです。(…)
「謎」がある。それを何とか解こうとじたばたしているうちに、とりあ
えず暫定的な答えが出る。そうするとまた、「謎」から新たな「謎」が
派生してくる。今度はそれに取り組む……という。答えを出しても、答
えを出した分だけ謎がよけいに深まる。「謎が深まる」というのが、い
わば答えたことの報酬なわけです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.124-126)

プロセスには2つのとらえかたがある。
ひとつは、ある目標・目的地にむかうプロセスと
もうひとつは、常に今をプロセスとしてとらえ、
決められた最終目的地に向かうための位置づけをもたないもの。
上記の言葉でいえば、「解けない謎を追究する」姿勢。
答えらしきものがでたとしても、それはつねに暫定的なもの。
図式はその図式を常に否定せざるをえないものとして使われるもの。

前者のプロセスにおける謎は、答えを出すためのものであり、
後者のプロセスにおける謎は、暫定的に出された答えが常に否定される、
目的があるとすれば、深めることを目的としたものである。
この違いは大きい。

答えを出すのが目的であれば、
そのプロセスは正しいか正しくないかが問題とされる。
答えも正しいか正しくないかが問題である。
1+1の答えは? という問いがあれば、答えは2で、正解。

プロセスそのものが問題であれば、
最初の1とはいったい何だろう。+とは何だろう。次の1とは何だろう。
答えを出すというのはいったいどういうことだろう。
というように、謎が謎をよんでいくことになる。
もちろんそういう問いは、正解か不正解かだけによって点数化されるシステムのなかでは、
まったくもって無駄なこととされるだろう。
しかし、最初から正解とされていることに、いったい何の意味があるのだろう。
解答マシーンになってしまうことに何の意味があるのだろう。

自分という謎に立ち向かう勇気は、おそらく解答マシーンからはでてこない。
謎は深められるどころか、スポイルされて、死んでしまう。

 

「身体を通して時代を読む」ノート9

『プラス思考の落とし穴』

2006.7.28

甲野/自分が成功したのは、「念ずればこうなるのだ」ということを言
う人がいます。でもこれもある面ではそうなのですが、安易にとらえる
とつまらないことになってしまいます。
 あらかじめ自分で思い描けるような状況なんて、つまらないものです。
本当にクリエイティブな発展というのは、想像を越えているものです。
例えば、悟った時の状況を思い浮かべて禅をするなんて邪道でしょうし、
およそおかしな話です。
 ただ、「念ずれば現ず」というのは、まさにそのとおりだし、またう
っかり思うと、うっかりかなってしまうということもあります。でも、
いまのレベルの自分が願っていることを成功として喜べるということは、
同時にそれ以上が見えなくなる世界です。「小成が大成をさまたげる」
というのは私がよく自分に言いきかせている自戒の言葉ですが、「プラ
ス思考」を推奨する人は、そのあたりのことをよくよく考える必要があ
ると思います。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.126-127)

マイナス思考をやめて、プラス思考をする。
というのは、ある部分は有効だが、むしろ障害になることがある。

つまり、ある目的に向かって、
それをすでに実現していることのようにイメージするというのが
その有効な方法なのだけれど、
その目的としての実現イメージをする自分の限界を
そのまま示すことになるわけである。

従って、ニンジンしかイメージできない人は、
そのニンジンに逆に制限されてしまうことになる。
イワシしかイメージできない人は、
そのイワシに規定されてしまうことになる。
それは自由ではなく、自分を檻に閉じこめる作業となる。

いい大学にはいって、いい会社に就職して、出世して・・・
というイメージにとらわれている人はその牢獄にみずから入ることになり、
巨万の富を得る(細木数子がよく口にするが)ことに執着する人は
お金の王国(牢獄)にみずからを投げ入れてしまうことになる。

自己実現イメージも同様であり、
自分を「成功」に向けてプログラムするのがその方法のひとつだけれど、
そうしてプログラムすることで、みずからをマシーンにしてしまう。
しかもそのプログラムの質は問われない。
以前、自己実現セミナーをセールスしている人の話をきいたことがあって、
その際、「ヒットラーやスターリンも、自己実現プログラムが可能なんですね」
と質問した際、それに対する否定的な解答はまったく得られなかった。

それはともかく、もっとも重要なのは、
自分を狭い折りに閉じこめることなく、
みずからをクリエイティブに発展させるということなのである。

 

「身体を通して時代を読む」ノート10

『「学び」とは別人になること』

2006.7.28

内田/「これこれを教えてください」と言ってくる人って、学ぶ前の自
分と学びのプロセスが終わったあとの自分が同一人物だと思っているん
です。学ぶ前と後で自分自身が主観的には少しも変化しないと思ってい
る。知識や技術は付加価値として「同じ自分」に加算されるものとして
考えている。でも、それは「学び」ではないです。それは商品を買って
いるのと同じですから。消費者は商品を買う前と買った後で別人にはな
りません。コンビニで買い物をする前とした後で別人になるはずがない。
でも、本当の意味での学びのプロセスでは、学ぶ前と後とでは別人にな
っているのが当然なんです。(…)
甲野/おそらく体感的にものを学ぶことがなくなってきているからでは
ないでしょうか。昔は子どもの頃から野原に出て、気を削ったりしてい
たわけでしょ。テレビゲームでは味わえない、実際に血を出すかもしれ
ない、転んで怪我をするかもしれないといった、何があるかわからない
要素がありますから。手を使って何かを削ったり、作ったりすること自
体はたいしたことをしているようには見えないかもしれないけれども、
そこには予想外のことが必ずあって、無数の“発見”があるわけです。
(…)
 だから、小学校低学年は体験教育も交えて、成績の良し悪しよりも、
学ぶことは実感として面白いなと思わせるような場にする。自分で木
を削って何かを作ったりしながら算数を学ぶ。山登りをしながら雲を
見たり、動植物を観察して理科を学ぶ。そういうことを教科で分けず
にやっていき、だんだんと専門分化していくような形にした方がいい
と思います。
「遊びの時間は終わり。勉強は勉強」ではなくて、自然に身を置いた
遊びの中で、算数を学んでその原理がわかれば。子どもたちが自ずか
ら勉強に興味を持つようになると思います。
内田/応用というのは、一見すると関係なさそうなものの間の関係性
を発見するということなんです。一度そのやり方を覚えると、後はど
んなものでも繋ぐことができる。でも、関係性を発見できない人はそ
もそも「繋がる」ということがわからない。だから、応用ということ
もわからない。単体の知識なんていくらあっても仕方ないのに。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.146-149)

「学び」とは別人になることだというのは、きわめて重要な視点である。
実際、学ぶことで自分が変化しなければ、それは学びとはいえない。
学びは「消費行動」ではないのである。
しかし、現代の教育の多くは、消費行動化しているところが多分にある。

Aという人物が、Xを学んだとする。
f(x)と表現するとすれば、A=f(x)とは決してならない。
f(x)の結果は、A'というふうに、Aは変容を遂げる。
さまざまなことを学ぶことでA'はさらに、A'', A'''と変容する。
しかし、消費行動でしかない学びは、AはいつまでもAのままであり、
学び関数はまったく成立しないことになる。

実際のところ、Aは常に変化し続けることを避けることはできず、
そのf(x)という学び関数の質的差異があるにすぎないともいえるのだけれど、
その質的差異は、限りなく大きなものになるといえるだろう。

ナイフを手に、山で木を削って、オブジェをつくるとする。
そのつくる前とつくった後で、大きく変化する子どももいるだろうが、
テスト用になにかの年号を覚えることで得られる変化はほとんどないだろう。
怪我をしたり、痛みを感じたり、からだじゅうではずんだり、
それらはすべて変容関数で自分を絶えず変化させる要因となる可能性をもっている。

「神秘学遊戯団」というときの、「遊戯」も
つねに自分を効果的に変化させるためのものだととらえた名称である。
神秘学とは、自分を変化させない知識を学ぶことの対極にあり、
「どうすれば自分を変化させることができるか」とを
テーマ化したものだということができる。

 

「身体を通して時代を読む」ノート11

問いの成立へ

2006.7.28

内田/諏訪哲二さんが『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)
という本に書いていることなんですけれど、学校教育がダメになったの
は、子どもたちが教育サービスを「商品」として考え、自分たちは対価
を払って教育サービスを受け取るという経済行為をしに学校へ行ってい
るという感覚になってからではないでしょうか。
 だから、子どもたちは、小学校に入ったばかりの段階で、先生に向か
って、「これを勉強して何の役に立つんですか?」と聞く。教師が答え
られないと関心をなくしてしまう。(…)
 消費主体として形成されてしまった子どもを、甲野先生がおっしゃる
ように、絶えず変化する自然に触れさせようとして田舎に連れていって
も、子どもはまず「それが何の役に立つの?」と聞くと思うんですよ。
 でも、大人はそれには答えられない。言えるとしたら、「君たちの語
彙の中にはいま経験しつつあることの意味や価値を語る語がない」とい
うことだけです。ない以上はそれをこれから自分で発見し、自分で創造
するしかないよ、と。
 このことを告げるのが教師の機能なんだと思うんです。
「僕はこれから君たちの語彙にいま存在しないもの、あるいは君たちの
価値観では価値として認知されたことのないものを伝える。語彙にない
ことだから、それが何の役に立つのかを君は決して自分で自分に説明す
すことができない。だから、黙って聞け」と。子どもと同じ目線で、同
じフロアで、同じ価値観を共有しあって共感し合いましょうというのは、
はっきり言って教育の自殺行為です。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.158-160)

人は自分のなかにもっていないものを理解することができない。
(潜在的にその可能性の種子をもっていないということではないのだけれど)
学ぶということは、その可能性の種子をお蔵から取り出して
それを植える行為だということもできるだろう。
それまでにはまったく理解できなかったものが、
その時点で理解の可能性を得ることができる。
もちろん理解するためには、その種を育てなければならない。

自分のなかにもっていないものを理解することができないというのは、
それが自分のなかで「問い」として成立しないということである。
「問い」として成立しないものに対する「答え」は従って存在しようがない。
しかし多くの教育知識は、試験の解答での正解・不正解のレベルにあって、
常に答えだけが暴走しているようなものである。
あるいは、「問い」が封じられたまま、固定化された認識の上を、
くるくるくるくるとまわっているミズスマシのようなものである。

問いをもつこと。
問いを持ち得るような心身を持ち得るようにすること。
何を学ぶのかを結果から入らないようにすること。
最初に知識としての100点満点を目指す行為は、
本来的な学びをともすればスポイルしてしまうことになる。

従って、「それが何の役に立つの?」という問いでさえない問いに対しては、
「その何を今のあなたは理解できない」ということを言わなければならない。
それは学校教育のことだけでないのはもちろんである。

実際、神秘学におけるさまざまな学びにおいては、
通常の常識でいえば、今の自分の理解できるレベルにない問いばかりである。
それを図式的に説明できないのはもちろんのことであるし、
それを学んでどうするのかという問いは問いとして成立しえないことが多いだろう。
今自分のなかの「語彙にいま存在しないもの」や
いまの自分の「価値観では価値として認知されたことのないもの」を
そこで学ばなければならない。

それは通常の認識においては矛盾するものであることも多いが、
その矛盾を生きることでしか学ぶことのできないものこそが、
もっとも重要なことであるのだということもできるだろう。

 

「身体を通して時代を読む」ノート12

『進化の仕方を進化させる』

2006.7.31

内田/乱暴に言ってしまうと、いくら変化しても、変化の仕方は変化し
ない人が凡人であり、変化する度に、変化する仕方そのものまで変化す
る人が「天才」というのではないか、と思ったのです。(…)
 じゃあ、凡人には救いがないのか、というとそういうわけでもありま
せん。
「師匠」というのもの、あるいは「伝承された型」というものには、凡
人を「天才」に準じた仕方で育てる機能が仕込まれているように思うの
です。師や型とのかかわりにおいて、正しくふるまえば、凡人でも「進
化の仕方を進化させる」ことが可能になる、いわば「準・天才」的なも
のになれる、僕はそんなふうに考えているんです。
 どうしてそういうことが可能かというと、よい師というのは、弟子の
進度に応じて、言うことを変えるからです。同じように、よくできた型
というのは、術技の熟達に応じて、その方が「何をさせようとしている
のか」の意味を変えていくからです。(…)
 ある術を学んだときに、その術が何を意味するのかという問いをたえ
ず自分に向け、術や型やあるいは先生が先ほど示された「武術に存在理
由はあるのか?」といった本質的な、おそらくは回答不能の「謎」をあ
えて引き受けること、そのようにして、術や型を無限の解釈可能性に開
くということが「生兵法」の段階を大けがをせずに通過するための「凡
庸の王道」ではないか、と僕は考えているんです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.174-180)

変わろう、変わらなければ。
だれもがそうおりにふれて思うのではないか。
でも、変われない、変わらない。

しかし、ほんとうに変わらざるをえないときがある。
変わらなければ、わたしはおしまいになる。
そして変わるためのさまざまを、
まるで追い立てられるようにまるで儀式のように行なうことになる。

変わるということには2種類ある。
変わらざるをえないから変わる外圧による変化。
道がそこで折れ曲がっていて、まっすぐにゆくと、断崖から落ちてしまう。
そして、みずからが選び取った自由による変化。
まっすぐゆく道も、折れ曲がった道も、大きくUターンしていく道も、
あるときは断崖を跳んだ向こうにゆながっている道も、
ときには、道のないところを道にする道も。
どの道を選ぶこともできるがわたしはあえてこの道をゆく・・・。
その2つの違いは大きい。

けれど、変わる仕方にも2種類ある。
いつも同じように変化する仕方と
変化の仕方そのものさえも変化させる仕方である。
守破離というのがあるがそれにあてはめるとすれば、
前者の変化は、守としての変化。
そうでなくても、破としての変化だろう。
しかし後者の変化は、離としての変化。
型にはまらない変化、単に破するというアンチの変化ではない変化。

そのことを考えていて、あらためてそうだったんだと思ったことがある。
なぜ、キリストが理解されにくいかということ。
キリスト衝動という謎。
グノーシスにおいても理解されがたかった、
なぜ太陽存在が地上で肉をもたなければならなかったのかという謎。
それは通常の進化という変化ではとらえられ難く、
その進化の仕方そのものを変化させようとした衝動ゆえのものだったのだろう。

そのように、予測できる変化というのは、理解しやすいが、
予測しがたい変化というのは、理解しがたいものである。
しかし真の認識の向上というのは、変化の仕方そのものの変化によってこそ
達成可能な部分が大きいように思える。
まして、変化さえしない単調な認識様態では、
いかなる認識の獲得も可能とはならないのだろう。
そういう意味で、この地上というのは得難い経験だということもできる。
一寸先は闇の、この地上。

 

「身体を通して時代を読む」ノート13

『数値化される教育』

2006.7.31

内田/どういう条件でその学習情報と出会うのかを問わずに、ただ知識
なり、情報なり、技術なりをのっぺらぼうな数字として扱えるのが高等
教育の理想的なかたちだと都知事が言い出して、役人たちがそれに追従
して、現実化してしまった。
甲野/最初はいろいろなところで広く学びができればいいというような
ことだったのだろうと思うのですが、ただそれを制度化させると果たし
てどうなのかなと思いますね。
内田/「広く」学ぶということばそのものに問題があると思うんです。
「広く」というのは、さきほどの甲野先生の言葉通り「二次元」の概念
ですよね。何かを「広い」と感じるのは、固定的な視点に立って、「学
び」の全貌を一望俯瞰している「主体」を想定しているからです。ここ
には「時間」というファクターも「成熟」というファクターもまったく
はいりこむファクターがない。「広く」学ぶ主体というのは、いくら学
んでも実質的には少しも変化しない主体として想定されているからです。
 十八才の学生が「これこれのことを学びたい」と思って、手元のカタ
ログから、一二四単位分の「教育商品」を選んで、卒業単位を揃える。
それは「買い物」の比喩そのままなんですよ。スーパーで、入口に買い
物カゴが置いてあって、店内を歩きながら、そこに「教育商品」をぽん
ぽんと放り込んでいく。いまの教育は、この「買い物」の比喩でしか構
想されていないんです。
 でも、本来の「学び」というのはそういうものではないでしょう。ひ
とつの商品を「買い物カゴ」に入れるたびに買い物をしている人自身が
それを買う前とは別人になり、「買い物カゴ」そのものも、ひとつ商品
が入るたびに材質もサイズも容態も変わってしまう。そういうきわめて
ダイナミックなプロセスだと思うんです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.242-244)

学ぶということは変わることである。
わたしが変わる。
変わろうとしなければ何も学べない。

最初に図式をつくってそれをなぞるだけだったり、
最初にある図面のジグソーパズルのピースをうめていくだけだったりでは、
わたしが変わるためのワークではありえないだろう。
解答集があって、問題があり、それに正解すると○、違うと不正解。
そこで点数が決まり、その点数がその教育の成果となる。
教師も生徒もそのことを互いに了承しあっている関係。

哲学は驚きからはじまるという。
そういう意味では、その数値化された教育には哲学は存在しえない。
そもそも現代では哲学が教育において重要にはなりえない。
しかしそんななかで哲学が小さなブームになるというのは、
それに対する危機感という部分もあるだろうが、
否定的にみるとすれば、哲学も商品化されるアイテムになった、
ということもできるのかもしれない。

わたしは、時間を生きている。
ゆえに、ジグソーパズルのピースではない。
最初にわたしというジグソーパズルがあるのではない。
わたしは常に生成変化する主体の運動である。
生成変化するということそのものが、「成熟」というファクターを可能にする。

若いということそのものが最重視され、
いつまでも若くありたいという願いへの執着がそこで肯定されすぎるとすれば、
その「成熟」というファクターはまったく顧みられることはなくなる。
若さという商品カタログをだきしめながら、
「買い物カゴ」にそこから新商品を入れていくことだけがテーマになる。

学ぶということは、自己否定の運動でもある。
自分はダメだとい自己否定ではなく、
成熟というファクターを重視するがゆえの変化を望むということである。
そのために平面のなかでしかとらえられない自分をその平面から脱出させる。
自分への執着からのエクソダスである。

 

「身体を通して時代を読む」ノート14

自己の外にでること

2006.8.1

甲野/敵をだますのはまず、味方からと言いますが、自分が正しいと思
っているとまわりも巻き込まれてしまいます。私はよく言うのですが、
しばしば起こる省庁の役人の汚職なんていうのは、本人たちも多少は罪
を自覚しているからまだいいんです。自分たちのやっていることがいい
ことではないと思っていますから。しかし、自分が正しいと思いこんで
いる者はどうしようもありません。お釈迦さんも、知らないで犯した罪
は知っていて犯した罪よりも重いと説いていますが、その典型例のひと
つだと思います。
 そのため、少なからぬ数の科学者が、科学的、科学的と言いながら、
自分が理解できないことは意味がないことだ、という変なプライドを持
っていることが多い。私の言うような、経験主義的な擬人的用語を使っ
た譬えばなしには耳も貸さない。そんなものに惑わされるのは科学者じ
ゃない、と思っているようですから。(…)
 科学者というのは、自説を正しいと信じ込むと、広い立場で客観的に
検討することを嫌いますよね。例えば、よく地震の時に「地震雲」とい
う独特の形の雲が出ることが伝承で知られてきているのですが、科学的
な地震学者は決して認めようとしません。(…)
 人間の行なうさまざまな技芸で。技の妙と言われるものは、現在のよ
うな科学的解明ということを受けつけないと思うのです。その理由はさ
っき話したように人間というのは、二つの事柄しか意識的には取り扱え
ないし記述できないからです。記述できないのだから、その方法で技の
妙と言われるものが説明できるわけがない。ですから現在の科学的な方
法で説明不可能なことがあることを、理系も人文系も含めた学問全体で
一度はっきりさせるべきだと思います。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.251-253)

逆説的な言い方になるが、
自分に理解できないことこそが意味のあることだとはいえないだろうか。

理解できることは自分の内部にあるので
それをそのまま認めるのはむずかしいことではない。
理解できないことは自分の外部にあるので認めがたい。
理解できないことすべてが意味あるということはできないが、
少なくとも理解できることに基づいて外部を排斥するのは危険である。
危険であるというのは、ドグマに弱くなるということでもある。
そして、自分が正しいということについて疑いを持ちにくくなる。
(現時点では)科学的に説明できないということを
非科学的な事象であるとしてしまいかねないわけである。
理解できることが正しいこと、理解できないことは正しくないとしてしまうと、
理解できる線の内部だけで独善的になりそれを恥じなくなる。
つまり、自分の理解できない「他者」は悪だということにもなってしまう。

このことは日常においても重要で、
自分の理解できるところだけを自分の世界にしてしまうと、
「愛」は存在しえなくなる。

「愛」の前提は、「他者性」である。
自分の理解できるさまざまを好むのは「愛」ではなく「情」である。
そこには「他者」は存在しえない。
そこでの世界は、自分と融合したものとしてそこにある。
しかし、「他者」の存在し得る世界は、自分と融合したものではない。
故に、「愛」の可能性がそこに広がる。
愛は、我と汝という関係を前提とする。
それは同時に「知」の可能性でもある。
融合したものを知る必要はないからである。

自分に理解できない外部へ出ること。
そこで他者に出会うこと。
情を超えた愛を体験すること。

 

「身体を通して時代を読む」ノート15

要の位置

2006.8.4

内田/高性能な身体装置のところに矛盾が集中するというのは、ほんと
うにその通りだと思うんです。仕事のできる人のところにどんどん仕事
が集まるように、能力の高い身体部位には集中的に負荷が加わってくる。
それはある意味合理的な身体運用といえなくもない。痛む部位というの
のは「できの悪い器官」ではなく、「仕事ができるすぎる器官」である
という考えには、ほんとうにそうだなと納得しました。
甲野/いま腰を壊す人が多いですが、腰という場所はそもそも全身に指
令を出すところなんですから、本来は大将としての待遇としなければな
らないのですが、多くの人が「腰を使え」という意味を誤解して、大将
なのに何でも預けて荷物持ちの中間や小者にしてしまっている。そうや
って腰に全部負担をかけるから腰が壊れるのです。
内田/腰が大将なんですか。たしかに腰という字は、「にくづき」に
「要」ですからね。
甲野/そう、要なんです。この場合の要というのは、そこからいろいろ
な指令を出すという要所なのですが、ほとんどの人がその要に負担をか
けるのです。だから腰が壊れる。
 近代トレーニングの問題点は、筋力でなんとかするという考え方が万
能になっていることです。武術は身体が負担を感じないような、構造的
に優れた身体の使い方が無理なくできるようにしなければならない、で
きるだけ負担を感じないように身体を使いなさいということなのです。
厳しい負荷を筋肉にかけて鍛えるという考え方とは根本的に違うのです。
筋力がついてできるのではなく、身体全体の動きのつりあいが取れてき
てうまく働いているから、やすやすとできるということです。そこにも
のすごく大きな違いがある。整体協会の野口晴哉先生の名言ではないけ
れども、食わないと断食療法になるけれど、漂流して食えないとなると
数日でものすごく体力が消耗する。つまり心理的に食えないとなると危
機感、飢餓感がものすごくつのってくるけれども、食わないと思って決
めたほうは衰弱の度合いが全然違う。ひらがなでは“わ”と“え”の違
いにすぎないけれどその違いは天地ほどあるということです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.270-271)

「要」は中心。
その中心があちらこちらと忙しく働きすぎると
全体は混乱する。
おそらく中心は空のようになって、
その周辺がバランスよく動いているのがいいのだろう。

自分のなかでの四肢の中心は腰。
その腰そのものに負担をかけるのではなく、
むしろ腰が空としての中心となるような形で
そこから指令を送り四肢をバランスよく機能させるほうが
ずっと故障も少なくなるのだろう。

スポーツ・トレーニングなどで起こる障害の多くも、
腰に限らず、特定の部位に「厳しい負荷」をかけすぎることが
原因であることはいわれてみれば当然のことのように見えてくる。
どうすれば全体をバランスよく
しなやかに機能させることができるかという視点よりも、
特定のスキルを向上させることにばかり目がいきやすくなる。

もちろん、「特定のスキル」を磨かなければ
なかなか「成果」は得られないので、
しかも「勝つ」ことを目的とするスポーツの場合、
いきおいそこにばかり負荷がかかってくるのは避けられない。
そういう意味でいえば、はなはだ歪な身体運動だといえる。

さて、そのアナロジーで考えてみると、
自分のなかでの心の中心はといえば、どこだろうか。
頭だともいえるし、胸だともいえるし、また腹だともいえる。
それぞれ知情意の中心だということもできるだろうが、
この場合で考えてみると、
そのひとつだけが中心となりすぎてしまうと、
心のバランスがくずれてしまうということもいえるのではないか。
もちろん、場合によって、3つのうちで
中心がシフトしていく必要があるだろうが、
ある意味で、頭が中心になるとしても、そのなかには小さな胸と腹があり、
胸が中心になるとしても、そのなかには小さな頭と腹があり、
そして、腹が中心となるとしても、そのなかには小さな頭と胸があり、と
他の2つを排除しない仕方が心の働きをバランスよく働かせる秘訣のように思える。

さて、上記には、面白い例があった。
食わないと食えないの“わ”と“え”の違い。
その違いというのは、意志の働きが中心だといえるのかもしれない。
ここで語られているのは武道的身体の側面が多いので、
いわば「腹」がここでは中心となった話である。
それに関連していうと、
眠らないと眠れないの“ら”と“れ”の違い。
持たないと持てないの“た”と“て”の違い。
というのも、この、あ行とえ行の違いというのは、
腹の働かせ方の違いのように思える。

 

「身体を通して時代を読む」ノート16

する・される

2006.8.4

内田/今の介護術は、介護する人間と介護される人間と二重化していま
すけれど、甲野先生の介護術は相手の人の身体に入り込み、相手の身体
と一体化するものですね。
甲野/そうですね。「添え立ち」という、足を伸ばして床に長座で座っ
ている人を立たせる技は、私が倒れないようにその人の体重で支えても
らっているような動きをすることで、相手も私の体重によって浮いてく
る。それに身体を添えて立ち上がるのです。
内田/介護される人に介護してもらう。その発想ってすばらしいです。
自分が助けようとした人に助けてもらう。そういうものだと思いますよ。
甲野/いま広く一般で行なわれている介護法は、その道に詳しい介護福
祉士の岡田慎一郎さんによれば、これを真面目に一ヶ月もやれば腰を壊
すようなもので、しかもそれが正しい介護法と言われているようです。
(…)
内田/それと同じことを感じるのはカウンセリングについてなんです。
カウンセリングって、心理的に問題を抱えている人が増えることによっ
て利益を得る仕事なわけですけれど、そのことをカウンセラー自身があ
まり自覚してないんじゃないかと思うんです。
 親とは縁を切りなさい、愛していない配偶者とは別れなさい、家庭は
虐待の場で、学校は抑圧の場だからそんなところにいる必要はない……
というようなアドバイスをするカウンセラーが少なくない。それが問題
を解決しているつもりでも、実は問題を増やしているんじゃないかな。
(…)どんな職業にも、自分が治癒し解決すべき問題が解決しないこと
からかえって利益を得るという側面があるんです。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.272-274)

「する」ためには、その対象である「される」ものが必要になる。
その両者はセットになっている。
しかし「する」と「される」は固定的な関係ではない。
「する」は「される」に容易に転化し、
また「される」は「する」に容易に転化するし、
ときに「する」と「される」は「即」の関係にもなる。
このことを誤解してしまうと、
「する」ほうはいつでも働きかけるポジティブな側になり、
「される」ほうはいつでも働きかけられるネガティブな側になる。

商品の生産と消費の関係についても同様で、
つくることと買うこと(使うこと)は
一方的な関係でとらえるとわからなくなる。
生産中心でものごとをとらえすぎても、
消費(受容)中心でものごとをとらえすぎても、
実際のダイナミックな現象をとらえることはむずかしくなる。
生産のなかにも受容は内包されなければならないし、
受容のなかにも生産は内包されなければならない。
その両者はある種の極としては設定できても、
明確にわけてしまうことはできない。

カウンセリングにおける上記の指摘も大変重要な示唆となっていて、
その示唆をさらにつっこんで考えてみると、
カウンセリングがクライアントをつくっているという側面が見えてくる。
これはある商品が生まれることでその利用者が新たに生まれ、
その利用者から生まれる新たなニーズを受けて、
またあらたな商品がつくられることで、また利用者が増えていく・・・
という連鎖にも似ている。

法律が犯罪を生むというのも、善人が悪をつくるというのも、
そのことのアナロジーで考えてみても面白いかもしれない。

 

「身体を通して時代を読む」ノート17

マニュアル依存症からの脱却

2006.8.4

内田/うちの大学でも、スクールカウンセラーになって、不登校の子ど
も、ひきこもりの子どもを救ってあげたいという学生がけっこうたくさ
ん来るんです。でも、不登校とかひきこもりとかいうのは、学校で得ら
れる教育資源の価値それ自体を否定していることじゃないですか。学校
教育の価値そのものを否定している子どもたちを治療するマニュアルを
学校に来れば学べると思っているという点で、すでに「学校教育には価
値がある」という予断を彼女たちは下しているわけです。「勉強する意
味がわからない」と言っている子どもたちを治療する方法を「勉強した
ら身につけられる」と思っている。その立ち位置の隔絶を彼女たちはあ
まりに自覚していない。
甲野/そういえば養老先生が新春テレビ対談で、「マニュアル化された
教育が問題だったら、マニュアルを使わない教育のマニュアルが欲しい」
という意見があったという話をされていましたね。
内田/僕もうかがいました。「マニュアルなき時代」というテーマの講
演で、講演の後にフロアから「マニュアルなき時代はどうやった生きた
らいいんでしょう?」といった質問があった(笑)。さすがの養老先生
も言葉を失ったそうですね。その質問がナンセンスだということ自体に
本人が気づいていない。でも、現実にはそれに類することをみんな平気
で言っている。
(…)
 「学ぶとはどういうことですか?」ということを何度も質問されたこ
とがあって、最後はうんざりして、「学ぶというのは、身銭を切らなく
ても人に訊けばどんな問いの答えも得られると思っている人間には無縁
なことです」と言ったことがあります。この間は「現代思想を学ぶ意味
は何ですか?」と訊かれたので、「そのような質問をしない人間になれ
ることです」と答えましたけれど、イジワルすぎたですね。
(甲野善紀×内田樹『身体を通して時代を読む』
 バジリコ 木星叢書 2006.6.20.発行/P.275-276)

いかなるマニュアルもいらないというのではないけれど、
マニュアルなしではなにもできないことになるとやはり情けない。

パソコンを操作するときにでも、いくつかの操作パターンと
それを知らなければ操作できないコマンドなどのいくつかに関しては
マニュアルなしではむずかしいところがあるけれど、
それ以外では、実際問題としてマニュアルを読むよりも、
自分で試行錯誤してみたほうがずっと早く使いこなせるようになる。

まして、人間に関わることに関して、
マニュアルを求めすぎるのは悲しいことだ。
日本人がマニュアル好きな理由には、
「型」を通じた稽古の本来の意味が誤解され卑小化されたことや、
アメリカンな「だれにでも可能なパターン行動」による標準化によって、
結果をすぐに目に見える形にしようとしたことで、
自分で試行錯誤しながら考えてみるということが
かなりスポイルしてしまったことがあるように思える。

実際、「考える」ということがわからない人というのは、思いのほか多い。
そして「考えてください」というと、
「どうやって考えたらいいのですか」とマニュアルが要求されたりする。
ほぼ日で山田ズーニーが毎週連載している『おとなの小論文教室』は、
その考えるということとどのように格闘する必要があるか、という
ある意味実況中継のようなものだと思っているけれど、
それがかなり大きな反響を呼んでいるのも、
「考えることがわからない」という人が多く、
危機感も増大しているということがあるように思える。

そして、思考なき者は藁をもすがる、で
その「藁」がマニュアルになってしまっているのが現状である。
「マニュアルなき時代はどうやった生きたらいいんでしょう?」と
絶叫のように、マニュアルを求めてしまうというのは笑い話ではすまされない。

上記の「イジワル」を使っていえば、
「考えるということはどういうことですか?」という質問に対しては、
「そのような質問をしない人間になれることです」と答えた方がいいのだろうけど、
「考えるってどういうことだろう」という疑問さえもたない人には、
「イジワル」であることさえ伝わらないのだろうなあ、と苦笑。