サイファ・ノート

(2000.11.5-11.15)


サイファ・ノート0●ことはじめ

サイファ・ノート1●社会的マインドコントロールからの覚醒

サイファ・ノート2●第四の帰属

サイファ・ノート3●パブリック・マインドの欠如

サイファ・ノート4●「学校化」の蔓延

サイファ・ノート5●脱共同体的な動機づけ

サイファ・ノート6●多元的所属

 

 

サイファ・ノート0

ことはじめ


2000.11.5

 

● 宮台真司+速水由紀子

 「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」(筑摩書房/2000.10.25発行) 

 というのがでたので、その視点のいくつかは参考になるのではないかと思い、いくつかノートをとってみたいと思います。ひょっとしたら途中で挫折する可能性もありますが、何をいわんとしているのか、そのあたりまでは頑張って続けてみたいと思っています。

 宮台真司は、「国民の道徳」とかいうようなアナクロに対してそれがいかにアナクロでしかないかということを明確に示しているというあたりけっこういいセンいってるところがあるんですけど、もちろん、それでOKかというとそうでもないわけで、それを本書では速水由紀子が少しフォローしてるところもあります。とはいえ、それもまた別の方向の物足りなさを露呈してしまっているというそんな感じのなかで、何かが見えてくればいいなと思っています。

 宮台真司は、少なくともオウム真理教をサポートしてしまった中沢新一的なポストモダン的伝統回帰からは逃れているところがあるのですが、また逆の意味で、「底が抜けて」しまった現状に対して、その方向づけといういうあたり、また別の何かからは逃れてないように見えます。そういう意味では、中沢新一の社会学的ニューウェイブ的リニューアルスタイルとでも位置づけることができるのではないかと思います。

 けれど、少なくとも中沢新一の物まねのように登場し、「わくわくしよう」とかいうような卑小なニューエイジ的展開をしてしまうよりは、深みにある何かを見据えようとしているのは確かではないかと思えます。その解決はおそらくは、「精神科学的に方向づけられた諸科学の拡張」というあたりではないかと思えるのですけど、おそらく現状の宮台真司的な感じでいえば、そういう方向付けはニューエイジ等と何等区別できないでしょう。おそらくはそのかすかな「波紋」のような要請は感じ取っているのでしょうけど・・・。

 しかし、そうした物足りなさはあるものの、現状ではいかに過去に回帰しないで前に進むことがいかに重要であるか、ということを見ていくことがどうしても必要なのではないかと思います。またそのことは、いわゆる人智学運動といわれているものが陥りがちな陥穽の部分をしっかりと見ていくための示唆にもらればというふうに思っています。

 本書のキーワードは「サイファ」。それを本書で説明しているところを引用してみます。 

私たちは、規定されたものが存在するという前提でーーたとえば「意味が通じる」とか「感覚を共有する」とかいう事態が存在するという前提でーーコミュニケーションを素材として成り立つ「社会」を営んでいます。こうした規定されたものから成り立つ「社会」の中から、たまさか本質的に未規定性的な「世界」が見えて「しまう」場合、それが「名状しがたい、すごいもの」として現れる、という構造になっているわけです。

 しかし「社会」の中に「たえず」未規定な「世界」が闖入するようでは、そもそも規定されたものから成り立つ「社会」はあり得なくなります。そこで、「社会」の随所で露呈しうる「世界の未規定性」を、いわば一箇所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特別な部分)として表象する。この特異点を社会システム理論では「サイファ」(暗号)と言います。これは、典型的には、「世界」の創造者としての「神」といった形をとりますが、その結果「神」だけが未規定性を一身に体現する代わりにーーいわば毒を吸収する代わりにーー、「世界」の残余(残りの部分)は未規定性を免れることになるわけです。「前提を欠いた偶発性」すなわち「端的なもの」を、無害なものとして受け入れ可能にする装置が「宗教」だと定義しましたけれども、最も原理的な水準では、今述べたような、「世界」の特異点へと、未規定性を集約するというやり方が用いられます。たとえば「神」は「世界」ぼ内側に属するのでしょうか、外側に属するのでしょうか。「世界」は定義によってありとあらゆることの全体ですから、その意味では「世界」の中にいるしかありませんが、しかしそうだとすれば「世界」を創造することはできません。しかし「世界」び外にいるのだとすれば、私たちは「世界」しか認識できないはずですから、そもそも「神」の存在を知ることさえできないはずです。これはよく知られたスコラ神学的なアポリアですが、ことほどさように「神」は根本的に未規定なものです。

(…)

 古い社会すなわち原初的共同体では、「世界」と「社会」が未分化でしたから、日常的なコミュニケーションの範囲内にたえず複数の「サイファ」が登場しました。これがアニミズムやトーテミズムが優位する、原初的な宗教性に当たります。日本の社会がこうした原初的な宗教性を、近代社会ーー機能的に分化した社会システムーーと両立させている希有な社会であることは、既に述べましたよね。

 ところが、社会が複雑になりますと、コミュニケーション可能なもの(人)とコミュニケーション不可能なもの(モノ)の区別が導入され、「世界」から「社会」が分出します。つまり「社会」に算入されない「世界」の余乗部分ーーいわば「社会」の外ーーが出現するようになります。「世界」(あるとあらゆるものの全体)とは違って「社会」(コミュニケーションの全体)は「閉じる」ことができます。それゆえに、日常的なコミュニケーションに「サイファ」がたえず登場するということはなくなります。その分「サイファ」は、「社会」の外に拡がる「世界」全体に関わる、その意味ではもっと特別なものに変化します。

速水 まさにそれが、この本のコンセプトですね。自分が内と外の両方に立っていることを認識すること。つまり誰もが内なる宇宙の主体であり、外側の宇宙を形成する一部だが、両者は裏返せば一つである。結局はすべて連鎖していてすべてに責任を負っている。

(P180-184)

 今重要なのは、おそらく「社会」の「底」の部分が抜けてきている現状のなか、「共同体」の再生が重要だとかいうことで、その「底」を補修しようとすることではなく、その抜けた「底」のむこうに見えてくる「世界」に対して、どのような態度を「個」としてとり得るかということではないかと思います。おそらくそのことを通じてしか、開かれたネットワークとしての「共同体」も創造しえないのではないでしょうか。

 このノートを通じて、いかに「精神科学」的なアプローチが、まさに上記の引用の最後にもあるように、「自分が内と外の両方に立っていることを認識すること。つまり誰もが内なる宇宙の主体であり、外側の宇宙を形成する一部だが、両者は裏返せば一つである。結局はすべて連鎖していてすべてに責任を負っている。」ということへの重要な示唆であるかということの一端が、過去回帰的な「道徳」指向への反省として見えてくればと願っています。

 そういうことをきちんとおさえておかないと、結局は、「社会」の「外」を見せないようなかたちで、コンクリートに固められたような、閉塞的な戒律に満ちた「共同体」のなかで、息を潜めてなれ合っていく以外になくなる「社会」へと向かっていくしか方法がなくなるのではないかと思うのです。そうした諸問題の顕在化として、昨今のさまざまな「事件」は起こっているのではないかともとらえることができるのではないでしょうか。

 

 

 

サイファ・ノート 1

社会的マインドコントロールからの覚醒


2000.11.7

 

普通に日常生活を送るうちになされる「無意識の刷り込み」があるよね。ある文化で育てば、たとえば「お父さんは大切だ」とか「神様はいるんだ」とか「鳥が部族のトーテムだ」ということを学んでいくわけだ。その学習は、必ずしも意識的に行なわれるわけではなく、気がついたときには当たり前の前提として踏まえているというような形で修得されていく。つまり「慣れ親しみ」とともに「世界」を形づくっていくわけです。その意味で、僕たちが、文化ごとに時代ごとに異なった形でコントストラクト(構築)された「世界」を生きているということ自体が、つまり、非自然的な前提に自明なものとして乗っかっているということ自体が、「社会」による「マインドコントロール」の結果だということになります。

 社会学的にいうと、僕たちがコミュニケーションできるのは、文化や時代ごとに異なる、こうした非自然的な、必ずしも目には見えない前提をしっかり踏まえているからだということになります。そういうコミュニケーションのあり得る範囲の全体を、先に言ったように、僕たちは「世界」一般から区別して「社会」と呼んでいるわけですね。ということは、言葉をかえていうと、「社会」とは、僕たちのコミュニケーションを浸している暗黙の前提の総体に、対応していると言えます。

 つまり、僕たちが「社会」を生きるということは、自分自身では何を踏まえているか必ずしも自覚できないような、ひとまとまりの前提群を踏まえているということに相当するんだけど、それを踏まえるかどうかを、自分自身で制御しきるということは到底できないわけだね。それが、「社会」は「個人」を超えているという感覚が生まれる理由になっているし、そこにこそ「マインドコントロール」という概念が入り込む余地があると言えるわけです。

 そういうものは全体としては回避できないし、そうする必要もない、ただ、親族原理を超える「高度な社会」以降、とりわけ近代社会になってからは、社会の異質化と流動化が進むから、相互のぶつかりあいや、時代の急な変化の中で、もちろん全てではありえないにせよ、従来覆い隠されていた前提が明るみになることがありうるし、そうしたプロセスにおいて、今までの自明な前提を意識的に捨てて、別の前提を意識的に選び直そうといった活動が出てきうる。もちろんこうした選び直し自体、その奥に暗黙の前提をもっているわけだけれど。

 いずれにしても「マインドコントロール」が一般的に悪いということはない。ただ、基本的に、ある社会が行き詰まったときには、自分たちが受けてきた特殊な「マインドコントロール」すなわち、今まで意識しないで踏まえてしまっていた暗黙の前提について、自覚的であろうとする態度が、すごく重要になってくる。それを君は「覚醒」と呼んでいます。その意味では、今ほど「覚醒」が重要な時はないと思います。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P35-37)

 環境がすべてを決めるとすれば、人は社会環境からのマインド・コントロールから自由になることはできないだろう。

 もちろん、社会によってマインド・コントロールされているといっても、人は社会的な存在であり、社会の中でそのさまざな要因を身につけながら育っていくのだから、それらすべてを避けることはできないだろうし、その必要もないのは確かである。言葉を学び使えるようになりそれをいわば母国語として使い、それに条件付けられているからといって、それを捨てる必要はないように。

 しかし、世界にはたとえば日本語だけがあるわけではない。日本語といっても自分の使っている方言だけが絶対なのではない。そういう意味でも、自分の使っている言葉をまずは相対化できるために、その言葉の外に出る試みというのはとても重要なことではないだろうか。たとえば、標準語としての日本語しか解さないとしたらどうだろう。もちろんそれは数多くの方言を解し使いこなさねばならないということではなく、今の自分を形成している諸要因に対して意識的になる必要があるということだ。

 また、日本は東京だけではない。よく、東京以外に住んでいると「地方にいる」といわれたりするが、東京というのも一地方にすぎない。そういう観点でもまた相対化、意識化ということが重要になる。

 そのように、自分の食べるもの、ひとつひとつの習慣、感じ方、考え方等々についても相対化、意識化ということをある程度は試みてみる必要があるだろう。でなければ、自分がさまざまなものにマインド・コントロールされているということに気づくことができないからだ。自分が暗黙の前提だと思い込んでいるものは思いの外多いものだ。そこに意識を向けることができないとき、人はマインド・コントロールの奴隷になっているのだといえる。つまり、眠りこけたまま目覚めていないということ。そのいちばんの特徴は、眠っているにもかかわらず、自分が目覚めていると思い込んでいることだといえる。それがいちばん始末に負えない。

 「そういうものだ」ということを疑うこと。まずは、そこからはじめる必要がある。

 

 

 

 

サイファ・ノート 2

第四の帰属


2000.11.9

 

第一の帰属は「一次集団」、つまり誕生してから子ども時代にかけて周りにいる近しい人たちで、所属するかどうかを自分では選べない集団だね。

(…)

第二の帰属は「二次集団」、つまり成長して家族離れを遂げたあと、所属するかどうかを自分で選べる集団で、会社や政治党派や宗教団体とか。(…)第三の帰属は「アイデンティティ」。日本だと「あなたのアイデンティティは?と尋ねると、家族だ、会社だ、とか応える人が多いけど、これは間違った使い方で、家族を失っても会社がつぶれても「自分は自分だ」と言えるような、所属と無関係なコア(核)のことだよね。(…)じゃあナニモノが所属を選んでいるのかということから、役割と分離しした主体性、つまり「アイデンティティ」の概念が出てくると言われています。

 問題は、「第四の帰属」だけど、これは、アイデンティティつまり自己定義と、いったいどこが違うのかな。

速水 自己定義はこの社会の中での自己定義です。

宮台 なるほど。「社会」と「世界」を分けるわけだね。(…)

 第一の次元(家族など)や第二の次元(社会など)から独立した、第三の自己定義(アイデンティティ)があったとしても、むしろそれゆえに、第四世界の中でのポジショニング(位置づけ)が分からなくなる。だからこそ、そこの部分で、いわゆるエセ宗教(…)に引っかからないで、「世界」の中に「自分」をうまく位置づけなおすことができるような、そういう知恵を身につけるべきではないか。そういう奥深い提案として、気味の発言を受けとめました。

速水 そのことに気づいてほしい、つまり「覚醒」してほしい、という提案です。社会はとてもたくみに私たちを「マインドコントロール」しているからです。

(…)

 要は、覚醒した状態での選択があるかどうか、そしてそれによって選択の責任を自覚できるかどうかが、問題なんです。同じゲームをやるにしても、他のゲームとの間で相対化するチャンスが与えられているかどうか。それが与えられていることで、アタッチメント(没入)とデタッチメント(離脱)とを随時とりかえることが可能になっているかどうか。いいかえれば、どういう自意識で競争に参加しているのかということこそが、問題であるわけです。

(…)

「第三の帰属」、あるいは「第四の帰属」を、そのゲームの世界では全く教えられないし、教えられるツールもない、知る機会が与えられていないんです。先生や親はそういうものを知らせないほうが、そのゲームをうまくコントロールできるから、なるべき隔離して外の世界は知らないようにする。そうすると、第二の帰属だけがものすごく重要であって、第三、第四はなくてもいい、あるいはあることにも気づかないというような官僚や政治家、教師が出てきたりということになるわけです。

 これは女性にももちろん言えることで、非常に高学歴な母親であっても、子どもの第三、第四の帰属についての尊厳を奪ってしまうような母親が増えている。これが今の日本の現状だと思います。第四の帰属を持たないと、人は容易に「マインドコントロール」されるものだし、その弊害にも気づかずに、社会の表面上のノウハウだけに頼って生きてしまう。そしてそのつけがどんどん下の世代に回ってくるということになります。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P29-46)

 私は私である。

 私を私以外のもの、私は〜家のだれそれである、私は〜人である、〜県人である、〜地方出身である、〜校出身である、子供である、親である、〜会社にいる、役職は〜である、男である、女である、等々によって自分を自分であると規定していることは多いが、それらはひとつの属性であって、それらが私なのではない。

 しかし、多くの場合、人はそれらを自分だというふうに、「マインド・コントロール」されている。そしてその属性をもつ者どうしが集まって「私たち」になる。「〜たるもの、こうせねばならぬ」というのがプロパガンダされる。ある種の党派意識でもある。

 もちろん、それが機能しているあいだは、そこに自足していることができるのかもしれないが、自足が脅かされるようになってくると、そういうわけにもいかなくなる。その場合の態度としては、その属性や党派のなかにあくまでもしがみつく方向と、苦しくでも「マインド・コントロール」を外そうとする方向とがあるだろう。

 後者の場合、その苦しさをむしろ喜びの方向に向けるためには、やはり、そこに新たな認識を導入していくことが必要になる。たとえば、パリサイ派のサウロ(パウロ)が内なるキリストにめざめ、ユダヤのなかでの戒律から自由になったように。しかし、多くのユダヤ人は、キリストを認めた場合でも、割礼などの、いわば「マインド・コントロール」から自由にはなれなかった。パウロにとっては、もはや無効になったとしか見えない戒律も、自分で自分を外から縛らなければならないユダヤ人にとっては、必要不可欠なものとしてとらえられてしまう。

 まずは、「家族を失っても会社がつぶれても「私は私である」と言えるような、所属と無関係なコア(核)」のことを考えてみなければならない。さらに、そういうものが埋め込まれている社会そのもののパラダイムが、根底から変換してしまっても、「私は私である」と言えるようなあり方が、模索されていかなければならないのではないだろうか。そうでなければ、「心の割礼」はいつまでたっても、自分を外から縛ってしまい、そのなかでしか安心が得られないことになってしまう。

 

 

 

サイファ・ノート 3

パブリック・マインドの欠如


2000.11.13

 

 小林よりのりのような馬鹿が、パブリックつまり公の概念をまったく理解しないで、日本人には公がなくなったなんてホザいているけど、こりゃお笑いなんだね。でも笑いごとじゃなくて、日本人の大半がパブリック・マインドをもっていないわけです。結論から先に言うと、パブリックを共同体のことだと考える小林よしのり的な見方は近代社会では非常識そのもの。どこの先進国でも常識になっている近代社会のパブリックとは、異なる共同体に属する人たち、あるいはどの共同体にも属さない人たちが、互いに侵害しあわないで共生するための、ルールや想像力の領域のことを言います。

(…)

 近代市民社会における「責任」(リスポンシビリティ)とは、同じ共同体や組織に属さない他者たちとの共生に必要なルールや想像力からやってくる要求。、あるいはそうした他者たち自身から直接なされる要求に、いかに応える(レスポンスする)か、ということです。これが分かっていない日本人は、マニュアルに想定された事態であるうちはまだいいけど、マニュアル外の事態が起こると、とたんに内輪ばかりに目がいって、外の視線に鈍感な「民度の低さ」がバレバレになるわけ。

 だいたい小林よしのりが属していた「新しい教科書をつくる会」での藤岡信勝と濤川栄太の「骨肉漫才」を見れば、この手の連中の頭にある責任概念がどの程度なのか分かるし、こいつらのホザく「パブリック」がいかに爆笑モノなのかも分かるでしょ(笑)。

 パブリック・マインドの欠如。これは日本人にとっては宿痾ですよね。昔からそうなんで、そうでなかったことがない。いつも所属集団の内輪の視線しか感じることができなかった。内輪が国家である場合は、韓国でキーセン観光したり、タイで少女売春っしまくったりする。内輪がオラが町である場合は、校長先生や教頭先生が隣町に行って女子高生たちと援助交際したり3Pしたりする。内輪がストリート仲間である場合は、街頭や電車で地べた座りして交通妨害になったり、街頭キスしまくったりする。大人から子供まで全部同じ。内輪が大きいか小さいかというだけの話。内輪が大きいのがエラいんだというのが小林よしのり的認識ですよ。だったら、八紘一宇まで広げろって(笑)。

 こうした日本の大人たちのパブリック・マインドの欠如。これが、家や地域が単に学校の出店となる「学校化」の背景と重なっているんだよ。子どもの視線から言えば、学校的な価値の物差しの外側で自尊心を抱くチャンスが、推奨されるどころか、むしろ徹底的に抑圧され、尊厳を貶められるようになったのは、日本における近代的パブリック概念の不毛に、原因があるということだ。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P50-52)

 小林よしのりが、いわば体をはってがんばっている姿勢に関しては、以前からそれなりの共感をもってはいるところもあるのだけれど、やはり、このところの「公」に関する議論は、とりわけ思考停止に陥っているように見えてしまう。

 問題は、自分が「公」だとおもっているものの「外」がその視野からは消えてしまうことだろう。その議論のなかでは、その「公」のなかにしか「外」が存在しない。

 そしてその「公」が叫ばれるときに、無私でいることが美徳とされる「私」が登場するが、実はそこには「公」の顔をした「私」がいるにすぎない。そしてそこでいう「私」は、「個」ではなく、無前提に存在しているさまざまな共同体の一部としての「私」である。だから、その「私」の「公」には「外」が存在しないし、またその「外」では「公」で美徳とされるエートスがはぎとられてしまう。つまり、「公」でいかに「公」の顔をしていたとしても、「所属集団の内輪の視線」のないところでは、なにをしているかわからない。「公」としての「道徳」はあるが、内的な「倫理」が欠如しているわけである。

 そういうあり方のなかで、「家や地域が単に学校の出店となる「学校化」」が推進されるものだから、その尺度を外れたところでは、空虚しか存在しなくなる。実際は、「学校」の尺度などほんの部分的なものにすぎないのだけれど、その尺度が肥大化するところでは、それ以外の尺度が見えなくなる。「自由への教育」ではなく、「自由を怖がる教育」になってしまう。だから、そこで「自由」が云々されるときには、無秩序や野放図による危険性という観点しかでてこなくなる。

 だから、小林よしのりの「公」などに関する議論に、たやすく共感してしまえるようになる。小林よしのりは、かつて「弱者」に関する議論でも、対立を恐れず姿勢を変えることができたように、まだしも自分で考えようとしているところがあるが、それを真に受けるほうはそうではなく、それに洗脳されるてしまうことになる。

 「外」を見ようとしないがゆえに、「内」を「外」だと思うようになり、その「内」での「内輪もめ」のなかで、不毛な闘争が起こる。そして、そこに自分で気づかない「排他」が強力に起こってしまう。「外」からの言葉は、そこには届かない。「外」は存在しないのだから、それを認識しようという姿勢も起こらない。「心の割礼」という戒律の内部で、礼拝を繰り返すのみになる。そこに果たしてメシアは訪れるのだろうか・・・。

 「パブリック・マインド」というような言葉は好きではないが、「所属集団の内輪の視線」のなかだけで戒律的な生活を送るのは、やはり、とくに現代においては不毛でしかないどころか、つねにその内部で、その戒律を破壊してしまうような過激なものが噴出してくるのを避けることはできないだろう。

 

 

 

サイファ・ノート 4

「学校化」の蔓延


2000.1.13

 

 佐藤学に代表される「良心的教育学者」があまりにも杜撰だから、ちゃんと話さなきゃいけないけど、家や地域が学校の出店になって、子どもにとって深刻な尊厳のリソース不足が生じるという、七〇年代以降の日本的「学校化」の背景は、近代天皇制的な疑似パブリックの崩壊と密接に関係しているんだ。それを徹底的に理解しなきゃいけない。要は、覆い隠されていたこのパブリック不在という問題が、成熟社会化による「経済的豊かさ」という国民的目標の消失が生じた七〇年代に露わになりかけたのに、「経済的豊かさ」という国民的目標に代わって、家や地域を巻き込んだ「学びの共同体」の成立(笑)が、再びパブリック不在の問題を、徹底的に覆い隠してしまったというわけです。(…)

要は「家族幻想の空洞化を、学校幻想で埋め合わせた」というわけだ。そんなふうにして、家や地域が学校の出店になる「学校化」が、あっという間に日本全国を覆い尽くしてしまった。

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地域と家庭と学校が力を合わせ、一人一人の子どもの関心に応える授業づくりを目指すのが「学びの共同体」だと佐藤学は言う。一人ひとりの関心に応えるなどとリベラル的な味付けをしながら、その実、多様な学びに必要な「多元的所属」を抑圧する日本的学校化ーー家庭や地域の学校的価値への一元化ーーを放置するというインチキぶりだ。佐藤は言う。《個人の「自由」や「権利」は、何にもまして絶対的な価値をもつべきなのだろうか。……個人の「自由」と共同体の「善」が対立する場合には、共同体の「善」を尊重するべきだ。》《この課題は、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争として焦眉の問題となっている事柄である。私はコミュタリアンである》(『学びの身体技法』)このコミュタリアニズム理解は、コミュニズム的に偏向しており、哲学史的に出鱈目である。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P58-59)

 なぜ学校にそこまでこだわるか、というのがいまだにピンとこないのだけれど、先日、山口昌男の「独断的大学論/面白くなければ大学ではない!」を読んで、いかに大学がその入額の難易度ランキングで位置づけられているかを知り、その学校のランク及び学校内でのランクということが、現在の学校がおかしいから、学校をつくる必要があるというのであっても、そこに色濃く反映しているのだと思い至った。

 ぼくは幸いにも(災いとしても事情は同じだが(^^;))、勉強が苦手だったので、「いい学校」というのがよくわからないままでいたし、いまもよくわからないでいるのだけれど、「学校」というのが、偏差値等へのアンチ的な姿勢もふくめて、大きな位置づけを占めるようになることで、その「学校」的なあり方から自由になることが、困難になってきているのだということではないかと思う。

 「学校」は「学ぶ」ということと関係しているのは確かだけれど、学校でないと学べないということになると、おかしなことになるし、その学校ということにちなんださまざまな価値によってマインド・コントロールされるようになると、やはり、「学ぶ」ということが「学ぶ」ということそのものに矛盾してくることも多くなってくるのではないかと思う。だから、「学校」を出たら「学ぶ」必要がないと思い込んでしまうことが多くなる。むしろ、「学校」を出た後でこそ、そこに自発的な意味で切実に「学ぶ」ことが必要になるのだから、その逆なのではないかと思うのだけれど・・・。

 「地域と家庭と学校が力を合わせ、一人一人の子どもの関心に応える授業づくりを目指す」という場合、その共同体の認識レベルで、正当なものとして認められない内容はそこから排除されるのは、考えなくても目に見えている。つまり、ある一つの価値に基づいたマインド・コントロールが容認されてしまう。そして、そこには、その「外」は存在できなくなる。「外」は「異界」でしかないのだから、そこに身の置き所はなくなる。または、「異界」であれば、なにをしてもよくなる。なにかをしたくなったとき、自分の「内」を狭くすれば、「良心」を感じなくてすむ(^^;。自分の内なる「悪」を、「外」に投影することも容易になる。

 「個人の「自由」と共同体の「善」が対立する場合には、共同体の「善」を尊重するべきだ」というとき、その「個」の「自由」をエゴイズム以外に見ることができなくなってしまうし、共同体内の「善」は、その内なる「悪」に無自覚になり、共同体の「外」の「悪」に標的を絞ることにもなりうるだろう。

 「学校」がそのためのものであってはならないだろうし、地域全体をそうした方向で「学校化」してしまってはならないだろうと思う。

 

 

 

サイファ・ノート5

脱共同体的な動機づけ


2000.11.15

 

 ちなみに、僕の教育改革の目標はそのことに関係していて、基本的には、共同体に回収されないような動機づけのメカニズムを、いかに宗教に頼らずに、周到に設計できるかということに眼目があるわけです。二つだけ註釈すると、まずこれは。科学的な真理探の動機づけ、ならびに、社会的な公正要求のーー先に述べたパブリックなーー動機づけの、双方において重要になります。というか、こういう脱共同体的な動機づけを一定量調達できなければ、科学システムも、政治システムも、経済システムも、必要なリソースやがて調達できなくなってしまいます。

 次に、「宗教を頼らずに」という意味だけれど、改めて言うまでもないと思うが、日本には宗教が普遍宗教として信仰されることがほとんどない。(…)そういう意味で、日本の教育システムでは、共同体を超えた「真」や「義」の動機づけを調達するのに、在来の宗教を頼ることは基本的に不可能だということです。

 ちなみに、イエスの説教からパウロが採りだした「隣人愛」(カリタス)の教義は、親や故郷の親しき者を愛する自然感情をエゴイズムとして退けることで、脱共同体的な機能を果たした、ということを別の本で述べましたけれど、パウロが「隣人愛」の教義を強調したのは、ローマ布教上の意識的な選択でした。異教徒・異民族が集う社会で、もう一つの宗教共同体をつけ加えるのではなく、共同体一般に対してメタ的な立場をとることで、浸透度を高めようとしたわけです。(…)

 さっき言ったように、親を愛するとか故郷の親しき者を愛するというのは、誰もが持つ自然感情ですが、共同体の内側ではそれでいいとして、外側ではエゴイズムに転化するわけです。たとえば、同じ共同体に属さない人間ーー親族でない人間、見知らぬ異邦人などーーを差別したり貶めたりする振る舞いを、抑止するどころか、むしろ「親しき者を守るため」という理屈で正当化させしかねない。イエスがこうした問題に直面したのは、かつてとは違って、ユダヤ共同体が、階層分化や異邦人混在によって、複雑化を遂げていたからです。

 まったく同じ事情が、イエスによる戒律の否定の背景にあります。戒律を守った人間だけが救われるのだとすれば、戒律を守る余裕のある金持ちや暇人だけが、言いかえれば、はじめから救われた人間だけが救われる、というトートロジーになる。全能のヤーベがかかる理不尽を許容するはずがない。ゆえにユダヤの神との契約は改められたのだと、イエスは宣言するわけです。すなわち、ユダヤ民族(ユダヤ人)であることと、ユダヤの戒律(神との契約)を守ることと、ヤーベの神にまるごと救済されることの、自明な一致を信じることが不可能な程度にまで複雑化が進んだ、イエスと同時代の社会状況があるんです。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P72-79)

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(マタイ福音書10-34-36)

 これは、家族が争えといっているのではないだろう。血縁だから、同じ民族だから、同じ共同体だからというのではなく、それぞれが個として、他者に対さなければならないということを象徴的に語っているのではないだろうか。だから、むしろ、家族は、共同体ということを越えて愛し合わなければならないということでもある。

 そのためには、まず自分がそこに属している共同体に対して、いわば「出家」しなければならないだろう。もちろん、その「出家」はそれによって別の共同体に属するのではなく、(それだとまるで「オウム真理教」のようになってしまう・・・)共同体を外から見ることができるようになる必要があるということである。そのことによって、それまで共同体を内から縛っていた戒律から自由になる可能性が開かれる。

 パウロが「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にもたたない方になります」、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(「ガラテヤ信徒への手紙」5)と述べているのも、そのこととの関連で見ていくと、示唆的だと思われる。

 さて、あえて極端な言い方をすれば、右翼はそういう共同体内の戒律を絶対的に是認する方向をとるために、「平和をもたらすためだ」といって、内には戒律の徹底を迫りながら、外に対しては「剣」をも辞さないという姿勢をとるだろうし、左翼は、既成の血縁や民族による共同体に対して、「剣」をも辞さない姿勢をとりながらも、それへのはるかな郷愁から、党派を形成し、そこに戒律を新たに設け、その党派同士の内部抗争を繰り広げることになる。いまだにその両者の方向は、二つの典型として後を絶たないように見える。雨後の竹の子のように出現する保守の亡霊と遅れてきた全共闘のように・・・。

 そういうあり方から離れるためにも、「共同体一般に対してメタ的な立場をとること」が重要であるように思える。そのためには、みずからがみずからに科している割礼をしっかり見つめ、そこから自由になる必要がある。そうでなければ、キリストの「剣」は意味をもたなくなるし、それゆえに残るのは、血や民族が同じであるという過去回帰か、もたらされた剣ゆえに、ほんとうに闘争を繰り広げる図式しかない。

 さて、自分が自分にそれと知らずに科している割礼に戒律をあらためてその外から見ることからはじめたいと思う。

 

 

 

サイファ・ノート 6

多元的所属


2000.11.15

 

 まず、社会学的に言う「多元的所属」が、この日本社会でなぜ重要か。一口で言えば、同調圧力に負けないためだよね。同調圧力とは、ピアプレッシャー、すなわち仲間集団からの圧力だ。同調圧力による動機づけは、たとえば選挙における土建屋や宗教団体や組合による動員にも見られるし、犯罪が起こったときの付和雷同的な世論形成においても見られるね。同調圧力に負けた動機づけが孕む、最大の問題は、誰がどういう理由でそれを選択したのかという責任の所在が、不透明になってしまうことだ。(…)

 そういうふうにして、多次元的所属が容易になり、またコストという粘性が消えて、コミュニケーションの流動性が高まっていくにつれて、特定集団への所属を失ってもショックが吸収されやすくなり、また代替的な所属も見つけやすくなっていく。そんなふうにして都市化の中で広がった新しいコミュニケーション・チャンスが、僕たちに、今までなかった、同調圧力からの自由を与えてくれているわけです。別に僕らが近代的自我を獲得したからではない。むしろ、そのような宗教社会学的条件がなくても、多次元的所属の条件さえ社会的に用意されれば、不快な同調圧力に負けなくて澄むわけです。その意味では、共同体主義的なメンタリティそのものを教育プログラムを通じて変える、というさっき述べた長期的構想では間に合わない短期的な部分を比較的うまくやりすごせる、という意味で重要なんです。

(宮台真司+速水由紀子「サイファ 覚醒せよ!/世界の新解読バイブル」 筑摩書房/2000.10.25発行 P84-88)

 日本では「空気」の圧力は思いの外強く、「空気」に逆らうことはかなりむずかしい。それに逆らうことは、いわば村八分を覚悟の上でなければならない。

 そして、「みんながそうしているから・・・」という動機づけは、「みんなで渡ればこわくない」式の行動原理を容易に導いてしまう。そして、みんなで渡ったときに、「誰がどういう理由でそれを選択したのかという責任の所在が、不透明になってしまう」。

 そこには「私」はなく、「私たち」だけが存在している。「私たち」は、ひとつの共同体、一色で塗られた集団原理である。もし、「私」がその共同体だけに属しているとすれば、その集団原理に逆らうことはできない。つまり、「私たち」という以外にはなくなる。そして「私たち」といっている限りにおいては、「私」はその陰に隠れていることができるし、「私」はなくてもいっこうに差し支えない。

 そういう意味でも、共同体をその外から見ることのできるメタレベルでの見方が必要だし、ひとつの共同体に閉じるのではない、「多次元的所属」が重要になる。それは、「組織なきネットワーク」というあり方とも関係してくる。そうしたあり方は、「同調圧力」や「戒律」、「村八分」への恐れを解消しうる可能性をもっている。そしてそれは「自由へ」と向かうものである。

 しかし、「私」でいることを好まず、常に「私たち」でいることを選択する場合、同調や戒律などがそのメンタリティの基本原理となる。そして、その場合、「自由」が実質的に破棄され、その「私たち」における「無私」が強要されることになり、それがかぎりなき美徳とされることになる。

 ひとつの共同体内にあっても、その原理が、「私」でいることによる「自由」なネットワークに向かって、開かれているならばいいのだが、そうでない場合、容易に「私たちは」原理にすり替えられてしまう。まるで、人間がつぎつぎと人間モドキにすり替えられてしまうように・・・。

 


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