墓のうらに廻る せきをしてもひとり 入れものが無い両手で受ける とかげの美しい色がある廃庭 春の山のうしろから烟が出した これが、放哉のハイクの幾つかです。なんでしょうね。書き写していて、 写しおえて、枯れているのにまだ生きている花の仕草か、消えたオーラに 不図ふれる、……あるいは、その花の仕草に、こちら側が摘まれているよ うな、静かな、不思議な気配を感じていました。おそらくそれは、その一 部は、「俳句」がその根にもっている「口承性ーー口伝えに、一呼吸一呼 吸運ばれてきた、……」によるのでしょう。放哉の句、その、……思い切 って、こう名付けましょう、その「口伝え性」のさらに消え入るようなと ころにまで、放哉の「俳句」の示す仕草は、及んでいるのだともいい得る のではないでしょうか。 (吉増剛造「詩をポケットに」(上) NHKのカルチャーアワー・テキスト 十二、絶えることなく差し出された手紙 ーー尾崎放哉/P155-156) いわば、「絶句」したとき、 つまり言葉に飽いたというか、 言葉にすることに嫌悪感を覚えてしまうときなど、 少し前に手に入れた「尾崎放哉全句集」(春秋社)から その句を口にしてみたくなったりもする。 絶句したときには、言葉から遠ざかるのもひとつの方策ではあるが、 ホメオパシー的な言葉の作用も無視できないのである。 尾崎放哉の句の言葉の少なさゆえに、 言葉がそこからあらわれてくる原初のところに 立ち会わせてくれる。 と同時に、言葉の少なさゆえに その一呼吸に込められている潜在する言葉の多さや 意識されているものの地平のことが ホログラムのように浮かび上がってくる。 ときに、ふとつぶやいた もしくは目にしたただひとつのことばが ぼくのなかにかぎりないものを 現出させてくれることがあったりもするが、 そういう不思議な時空の在り方が紡がれて 生み出された世界。 それは単純至極のように見えるが そこにホメオパシー的にあらわれるものは 不思議な力をもって迫ってきたりもする。 はじめて尾崎放哉の句に出会ったときの困惑。 その困惑はその困惑のまま放置されながら 不思議な磁力でぼくをひきつけてやまない。 |
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