時間はわれわれの外に在るものではないし、時計の針のごとく、われ われの目の前を通り過ぎてゆくようなものでもないーーわれわれが時間 であって、過ぎ去るのは年月ではなく、われわれ自身である。時間はひ とつの方向、ひとつの意味を持っている、なぜなら、それはわれわれ自 身だからである。リズムは暦や時計とは反対の働きをするーー時間は抽 象的な測定値であることをやめ、その本来の姿、つまり、具体的な、あ る方向性を備えた何かに戻るのである。絶えざる湧出であり、常にさら に向こうに行こうとする時間は、永遠の自己超出である。時間の本質は その<さらに向こう>であり、同時にその否定である。時間は意味を逆 説的に肯定している。つまり時間は、意味としての自らを否定し続ける ところのひとつの意味ーー常に自らの外に、さらに向こうに行こうとす ることーーを持っている。自らを破壊するが、破壊されるたびに自らを 繰り返すのである。しかし、その個々の繰り返しは変化である。常に同 じものであり、そして同じものの否定である。従ってそれは、単なる測 定値や空虚な継続ではない。リズムがわれわれの目の前で繰り広げられ る時、何かがリズムに、つまりわれわれ自身に起こる。リズムには<… …に向かって行く>というその性質があり、それは、われわれが何であ るかが明かされたとするならば、同時にその時に明らかになるものであ る。リズムは測定値ではないし、われわれの外にある何かでもない。そ うではなくて、リズムの中に流れこみ、<何か>に向かって自らを投げ 出すのが、われわれ自身なのである。リズムは意味であり、<何か>を 語る。従って、その言語的、あるいは思想的内容は不可分のものである。 詩人のことばが言わんとすることは、そのことばが依拠しているリズム がすでに述べているのだ。それだけではない。そうしたことばは、茎か ら花が生ずるごとく、リズムから自然に生じてくるのである。リズムと 詩語との関係は、ダンスと音楽的リズムの間を支配するそれと異なるも のではないーーリズムがダンスの音楽的表現だと言うわけにはいかない し、また、ダンスがリズムの肉体的表現というわけでもない。あらゆる ダンスがリズムであり、あらゆるリズムがダンスである。リズムの中に すでにダンスがあり、またその逆である。 (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/P83-84) 私は時間である。 私がこの地上で歩く。 すると私とともに空間がそこに現象してくる。 その動きがリズムである。 地上で生きる私はリズムとともにある。 今は今であるが、 今しかないとすればリズムは生まれない。 今が今を自己矛盾的に否定する。 そして同時にそこにはない「その先」を肯定する。 そしてそれが今になり、またその今が今を否定する。 その繰り返しが華麗に遊戯する。 それがリズム。 リズムが外からくるとき 私はリズムの奴隷となる。 リズムボックスが強制する私の機械化。 号令とともに歩く私の集合化。 私の内から生み出されてくるリズムは 私を奴隷状態から解放する。 私は私という時間を空間に向けて投げかけ それをまた私が受け取る。 その遊戯によって私は私を生成させてゆく。 私は私であり 私は私を超えていくために 私でない私に向けて 私を否定しかつ肯定する。 ダンス!ダンス!ダンス! 私は生をダンスする。 この地上で四肢を遊戯させる。 するとそこに未来の自分の萌芽が明滅するのが予感される! |
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