ポエジー・ノート

5 リズム


2002.4.24

 

         時間はわれわれの外に在るものではないし、時計の針のごとく、われ
        われの目の前を通り過ぎてゆくようなものでもないーーわれわれが時間
        であって、過ぎ去るのは年月ではなく、われわれ自身である。時間はひ
        とつの方向、ひとつの意味を持っている、なぜなら、それはわれわれ自
        身だからである。リズムは暦や時計とは反対の働きをするーー時間は抽
        象的な測定値であることをやめ、その本来の姿、つまり、具体的な、あ
        る方向性を備えた何かに戻るのである。絶えざる湧出であり、常にさら
        に向こうに行こうとする時間は、永遠の自己超出である。時間の本質は
        その<さらに向こう>であり、同時にその否定である。時間は意味を逆
        説的に肯定している。つまり時間は、意味としての自らを否定し続ける
        ところのひとつの意味ーー常に自らの外に、さらに向こうに行こうとす
        ることーーを持っている。自らを破壊するが、破壊されるたびに自らを
        繰り返すのである。しかし、その個々の繰り返しは変化である。常に同
        じものであり、そして同じものの否定である。従ってそれは、単なる測
        定値や空虚な継続ではない。リズムがわれわれの目の前で繰り広げられ
        る時、何かがリズムに、つまりわれわれ自身に起こる。リズムには<…
        …に向かって行く>というその性質があり、それは、われわれが何であ
        るかが明かされたとするならば、同時にその時に明らかになるものであ
        る。リズムは測定値ではないし、われわれの外にある何かでもない。そ
        うではなくて、リズムの中に流れこみ、<何か>に向かって自らを投げ
        出すのが、われわれ自身なのである。リズムは意味であり、<何か>を
        語る。従って、その言語的、あるいは思想的内容は不可分のものである。
        詩人のことばが言わんとすることは、そのことばが依拠しているリズム
        がすでに述べているのだ。それだけではない。そうしたことばは、茎か
        ら花が生ずるごとく、リズムから自然に生じてくるのである。リズムと
        詩語との関係は、ダンスと音楽的リズムの間を支配するそれと異なるも
        のではないーーリズムがダンスの音楽的表現だと言うわけにはいかない
        し、また、ダンスがリズムの肉体的表現というわけでもない。あらゆる
        ダンスがリズムであり、あらゆるリズムがダンスである。リズムの中に
        すでにダンスがあり、またその逆である。
         (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/P83-84)
 
私は時間である。
私がこの地上で歩く。
すると私とともに空間がそこに現象してくる。
その動きがリズムである。
 
地上で生きる私はリズムとともにある。
今は今であるが、
今しかないとすればリズムは生まれない。
今が今を自己矛盾的に否定する。
そして同時にそこにはない「その先」を肯定する。
そしてそれが今になり、またその今が今を否定する。
その繰り返しが華麗に遊戯する。
それがリズム。
 
リズムが外からくるとき
私はリズムの奴隷となる。
リズムボックスが強制する私の機械化。
号令とともに歩く私の集合化。
 
私の内から生み出されてくるリズムは
私を奴隷状態から解放する。
私は私という時間を空間に向けて投げかけ
それをまた私が受け取る。
その遊戯によって私は私を生成させてゆく。
 
私は私であり
私は私を超えていくために
私でない私に向けて
私を否定しかつ肯定する。
 
ダンス!ダンス!ダンス!
私は生をダンスする。
この地上で四肢を遊戯させる。
するとそこに未来の自分の萌芽が明滅するのが予感される!
 
 


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