ポエジー・ノート

4 翻訳空間


2002.4.13

 

         ベンヤミンのひそみにならって?たしかに、ベンヤミンの代表的なエッ
        セーのひとつに「翻訳者の使命」があり、以下に展開するのも、その多く
        は翻訳をめぐってのものである。だが、それ以上に、断章という形式をい
        つにもまして際だたせようと思うのだ。「一方通行路」「セントラル・パ
        ーク」「歴史哲学テーゼ」ーーあの煌めくようなベンヤミンの断章群。そ
        のひそみにならって。
        (P55)
         距離を感じさせないような翻訳を、われわれは翻訳空間とは呼ばない。
        意味の伝達、もろもろの翻訳技術、流麗な訳文、それらは翻訳空間とは何
        の関係もない。一方から他方へ、多義的なトランス=うつし(写し、移し、
        映し、顕し)が行われていること、それだけが翻訳空間の与件である。た
        とえば、「O saisons.o chateaux/季節が流れる、城塞がみえる」の場
        合、原詩は、無冠詞の名詞の列挙、いわばシンタックス以前の語の激発だ
        が、これに対して訳詩は、動詞を付加することによって柔らかくシンタッ
        クスを始動させている。一見、逐語訳は希薄で、もはや翻訳とはいえない
        ような自由な書き換えが踊っている。同時にしかし、原詩の名詞はいずれ
        も複数形に置かれていて、流れやまない多数多様性を強調しているが、訳
        詩においてもまた、その多数多様性を、名詞の複数形をもたない日本語環
        境のなかで、むしろ「流れる」や「みえる」といった動詞に表現させたの
        であり、そこにはすばらしい逐語性があるとも言えるのだ。逐語性と自由
        とが反転しあうような、このめまいのような距離。
         逐語性/自由の反転とは、要するに、いわば翻訳不可能性に対してとる
        翻訳の詩的身体性のことである。オリジナルにおける内容と表現の一体性
        は、それをそのまま写すことはできないが、別様の一体性として顕すこと
        はできる。ベンヤミンをふまえてデリダが述べているように、翻訳の問題
        とは、結局のところ詩的言語の翻訳の問題であり、逆に言えば、まさに中
        也が身をもって証しているように、翻訳それ自体がすぐれてひとつの詩の
        行為なのである。
        (P59-60)
         翻訳空間はまた、母性棄却のアナロジーとして思い描くこともできる。
        母語をニュートラルに使うことができるのは、その母性的なる部分をおぞ
        ましいものとして棄却したのちのことである。だがふつう、それは意識さ
        れない。それを意識し、実践するのは詩人だけである。詩人は母語を異語
        のように使う。ということの意味は、つまりそのようにして母語の母性棄
        却をおこなうのであり、吃音、喃語、地口、オノマトペ…、シンタックス
        の破壊、シニフィアンの自走ーーあrとあらゆる言葉の物質性がそのとき
        噴出する、鳥肌のような、経血のような、ミルクのような物質性が。
        (P62)
        (野村喜和夫の『二十一世紀ポエジー計画』より)
 
ドイツ在住の多和田葉子の小説は、
ドイツ語と日本語のせめぎあいから生まれているところがある。
「上手い日本語/ドイツ語、綺麗な日本語/ドイツ語」という
制度化されがちな言葉たちに常に違和感を注ぎ込むように。
 
多和田葉子もまたベンヤミン好みを表明している。
たとえば「もしランプ、山々、狐が人間に自己を伝達しないのだとすれば、
どのようにして人間はそれらのものを名づけられよう?」
というベンヤミンの言葉を。
 
「文字移植」(河出文庫)ではまさに
「翻訳」そのものが、その欲望と不可能性とのせめぎあいが
激しくテーマ化されている。
 
さて、今年から少し試みと遊びのために
ラジオドイツ語の英会話を聞いているのだが、
そのレッスンというのは、むしろこうした「翻訳空間」とは
根底において性質を異にしたものだと感じられる。
 
慣用表現にとにかくなんでも慣れさせようとするレッスン。
言葉の意味を英語の日常会話と日本語の日常会話とを
俗に徹する形でとことん標準化しようとする。
異化作用のスポイル現象をレッスンにするわけである。
音読させて英語そのもののトーンなどまでオーバーラップさせて
身体性のレベルにまで落とし込んでいこうとする。
母性的なる部分のおぞましさのなかに
積極的に取り込まれてしまおうというもの。
 
このある種のおぞましさのなかで、
多くの英会話が成立していくのだろうと思うと、
その後の反抗期にあたるものが
果たして訪れるのかどうか、危ぶまれたりもする。
ぼくなどは、最初の最初から反抗期になって、
吐き気をこらえこらえつつ、
その異常なまでの英会話空間のなかで
その異常性に耐える修行としていたりする。
 
むしろ、現在はじめている韓国語の勉強において、
ハングル文字と音などといったところから
かぎりなくぎこちなくはじめっていったほうが
ぼくの場合にはおぞましさを感じないで済む。
 
ところで、ぼくの場合は、
今こうして使っている日本語そのものが
そもそもにおいてある種の翻訳性に彩られていたりする。
果たしてこの日本語はぼくにとって母語といえるのだろうか。
それにしては最初からかなりの程度のおぞましさとして
ぼくのなかでその言葉たちは立ち現れてきているように思う。
もちろん、この日本語以外ぼくはとくに使えないのだけれど、
ぼくのなかのなにかが、この母語のおぞましさに反抗的だったりするのだ。
 
ぼくはこうして日本語を使いながら、
常に何かを翻訳し続けている。
いったい何を何から翻訳しているのだろうか…。
 
 


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