ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用として の詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるが ゆえに内的解放の一方法でもある。ポエジーはこの世界を啓示し、さら にもうひとつの世界を創造する。 (…) われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩が 勝手に混同されているのではなかろうか? (…) 詩なしでもポエジーは存在する。風景、人物、事実などはしばしば詩 的であり、それらは詩であることなく、ポエジーでありうる。…詩はひ とつの作品である。ポエジーは人の手になるものーー絵画、歌、悲劇ー ーのなかに極限され、集中し、そして孤立する。詩的なるものが、まだ 形を持たない状態におけるポエジーであるのに対し、詩は創作であり、 頭をもたげたポエジーである。ポエジーは詩のなかでのみ孤立し、完全 に発現されうるのである。もし人が詩を、そこにいかなる内容をもつめ こむことのできるひとつの形式と考えるのをやめるならば、詩に対し、 ポエジーの存在を問うことは許される。詩は文学形式ではなくてポエジ ーと人間の出会いの場である。詩はポエジーを包含し、それを刺激する。 あるいは発射する言語の有機体である。 (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/P16-19) 詩がポエジーなのではない。 詩という場においてポエジーが具体化される。 ポエジーは名づけられない。 仮の名としてのポエジー。 ポエジーの注ぎ込まれたガラスの瓶の形をみて それをポエジーだということはできない。 ポエジーは創造を伴った認識運動である。 ポエジーとともにあるとき 私たちは生成そのものに立ち会うことになる。 ポエジーは言葉をその生成の場に連れていく。 まるではじめて生まれた言葉によって、 あるいは死の後、復活した言葉によって、 ポエジーは世界を変革、創造する。 ポエジーの秘儀を受けた言葉を 内に注ぎ込むことで、 私たちは再生を体験する可能性を得る。 ときにポエジーは剣となり ときにポエジーは愛となり ときにポエジーは涙ともなり 私たちを目覚めさせる。 日常に眠り込んでいる私たちを。 眠り込ませる言葉を詩とは呼べないだろう。 詩という形式だけを纏った死骸もある。 ポエジーは決して形式にとらわれない。 むしろ形式のなかで生きる。 形式を超える形式にする。 生きた思考にする。 |
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