ポエジー・ノート

3 ポエジーと詩


2002.4.8

 

         ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用として
        の詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるが
        ゆえに内的解放の一方法でもある。ポエジーはこの世界を啓示し、さら
        にもうひとつの世界を創造する。
        (…)
         われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩が
        勝手に混同されているのではなかろうか?
        (…)
         詩なしでもポエジーは存在する。風景、人物、事実などはしばしば詩
        的であり、それらは詩であることなく、ポエジーでありうる。…詩はひ
        とつの作品である。ポエジーは人の手になるものーー絵画、歌、悲劇ー
        ーのなかに極限され、集中し、そして孤立する。詩的なるものが、まだ
        形を持たない状態におけるポエジーであるのに対し、詩は創作であり、
        頭をもたげたポエジーである。ポエジーは詩のなかでのみ孤立し、完全
        に発現されうるのである。もし人が詩を、そこにいかなる内容をもつめ
        こむことのできるひとつの形式と考えるのをやめるならば、詩に対し、
        ポエジーの存在を問うことは許される。詩は文学形式ではなくてポエジ
        ーと人間の出会いの場である。詩はポエジーを包含し、それを刺激する。
        あるいは発射する言語の有機体である。
        (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/P16-19)
 
詩がポエジーなのではない。
詩という場においてポエジーが具体化される。
 
ポエジーは名づけられない。
仮の名としてのポエジー。
ポエジーの注ぎ込まれたガラスの瓶の形をみて
それをポエジーだということはできない。
 
ポエジーは創造を伴った認識運動である。
ポエジーとともにあるとき
私たちは生成そのものに立ち会うことになる。
 
ポエジーは言葉をその生成の場に連れていく。
まるではじめて生まれた言葉によって、
あるいは死の後、復活した言葉によって、
ポエジーは世界を変革、創造する。
 
ポエジーの秘儀を受けた言葉を
内に注ぎ込むことで、
私たちは再生を体験する可能性を得る。
 
ときにポエジーは剣となり
ときにポエジーは愛となり
ときにポエジーは涙ともなり
私たちを目覚めさせる。
日常に眠り込んでいる私たちを。
 
眠り込ませる言葉を詩とは呼べないだろう。
詩という形式だけを纏った死骸もある。
ポエジーは決して形式にとらわれない。
むしろ形式のなかで生きる。
形式を超える形式にする。
生きた思考にする。
 
 


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