「パウル・クレーの絵」も「パウル・クレーの日記」も、その途方もな い魅惑のために、とうてい読み切ることは出来ない、……という、そう、 道元さんか賢治さんのところで使った言葉だったか、“無尽蔵の仕草” が働いていることに直覚によって気がつく、ある種の爽快さ、その“爽 快”がもたらす豊かさの発見、そして絶えざる発掘状態の現場なのでは ないでしょうか、……。クレーの心の内面を「日記」から覗き込もうと いうのでは決してないのです。そんなことは出来はしないし、彼自身の いう「創造的なのは、まさに途中の過程であり、これこそもっとも大切 なもので、生成(Werden)は存在(Sein)にまさる」や「大切なのは、 省略しないということである。小さくごちゃごちゃしているが、とにか くそれは現実の行為そのものなのだ。私は、初歩の初歩から始める」に 耳をしっかりと傾けるほうがよい。クレーの“初歩の初歩から、”…… は、ある種の啓示に似ていました。詩もまたそうではないだろうか。ク レーのこの声を、光源のひとつにして、「日記」のなかに光る眼をみる こと。そのバランス(秤子ーー道元「夢中説夢」)を絶えず修得しよう と、そこに心をむけようとすること。 (吉増剛造「詩をポケットに」 NHKのカルチャーアワー・テキスト/P14) 昨夜、吉増剛造「詩をポケットに」の初回の放送があり、 その静かに「生成」されていく言葉が ぼくのなかで不思議な余韻を持ちながら響いてきた。 「クレーの日記」(新潮社/1961発行)は、 ぼくの本棚のなかでも手の届くところに置かれている。 2年ほど前、古書店で見つけて以来いつもそこにある。 たしかにそこには「無尽蔵の仕草」が働いている。 「初歩の初歩から」 これは、初心者という意味の初歩ではなく、 常に生成している今ここにいることから離れない、 ということなのではないか。 生成から離れないこと。 それがポエジーの基本であるように思う。 「詩をポケットに」というタイトルも おそらくはその生成とともにあるという意味なのだろう。 生きるということを抽象化するのではなく ポエジーにするためには 今がつねに生成であるということに、 言葉を換えればプロセスそのものであるということに 気づいていることが必要なのだろう。 すでに発掘されたものを鑑賞するのではなく、 発掘現場にいること。 つくられた現場で指示されたものを辿るのではなく、 みずからを投げ込んだ現場において 常に「初歩」を踏み出し続けること。 どんなに素晴らしいとされていることでも そこに初歩が失われているとき それは抽象化され固定化された何者かに化してしまう。 どんなに小さく些細なことでも それが初歩の体験に満たされているとき それは生きている永遠の生成とともにある。 |
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