ポエジー・ノート

2 初歩の初歩から


2002.4.7

 

        「パウル・クレーの絵」も「パウル・クレーの日記」も、その途方もな
        い魅惑のために、とうてい読み切ることは出来ない、……という、そう、
        道元さんか賢治さんのところで使った言葉だったか、“無尽蔵の仕草”
        が働いていることに直覚によって気がつく、ある種の爽快さ、その“爽
        快”がもたらす豊かさの発見、そして絶えざる発掘状態の現場なのでは
        ないでしょうか、……。クレーの心の内面を「日記」から覗き込もうと
        いうのでは決してないのです。そんなことは出来はしないし、彼自身の
        いう「創造的なのは、まさに途中の過程であり、これこそもっとも大切
        なもので、生成(Werden)は存在(Sein)にまさる」や「大切なのは、
        省略しないということである。小さくごちゃごちゃしているが、とにか
        くそれは現実の行為そのものなのだ。私は、初歩の初歩から始める」に
        耳をしっかりと傾けるほうがよい。クレーの“初歩の初歩から、”……
        は、ある種の啓示に似ていました。詩もまたそうではないだろうか。ク
        レーのこの声を、光源のひとつにして、「日記」のなかに光る眼をみる
        こと。そのバランス(秤子ーー道元「夢中説夢」)を絶えず修得しよう
        と、そこに心をむけようとすること。
       (吉増剛造「詩をポケットに」
         NHKのカルチャーアワー・テキスト/P14)
 
昨夜、吉増剛造「詩をポケットに」の初回の放送があり、
その静かに「生成」されていく言葉が
ぼくのなかで不思議な余韻を持ちながら響いてきた。
 
「クレーの日記」(新潮社/1961発行)は、
ぼくの本棚のなかでも手の届くところに置かれている。
2年ほど前、古書店で見つけて以来いつもそこにある。
たしかにそこには「無尽蔵の仕草」が働いている。
 
「初歩の初歩から」
これは、初心者という意味の初歩ではなく、
常に生成している今ここにいることから離れない、
ということなのではないか。
 
生成から離れないこと。
それがポエジーの基本であるように思う。
「詩をポケットに」というタイトルも
おそらくはその生成とともにあるという意味なのだろう。
 
生きるということを抽象化するのではなく
ポエジーにするためには
今がつねに生成であるということに、
言葉を換えればプロセスそのものであるということに
気づいていることが必要なのだろう。
すでに発掘されたものを鑑賞するのではなく、
発掘現場にいること。
つくられた現場で指示されたものを辿るのではなく、
みずからを投げ込んだ現場において
常に「初歩」を踏み出し続けること。
 
どんなに素晴らしいとされていることでも
そこに初歩が失われているとき
それは抽象化され固定化された何者かに化してしまう。
どんなに小さく些細なことでも
それが初歩の体験に満たされているとき
それは生きている永遠の生成とともにある。
 


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