ポエジーは「イロニー」である。 「イロニー」というのはここでは修辞学上の一つの表現方法ではなく、 芸術とか美の基本的な原理をいうのであって、二つの相反するものの緊張 とか調和(バランス)ということである。それは「矛盾」ともパラドック ス(逆説)とも「ウィット」とも言ってよい。(…) ポエジーは「イロニー」であるから、否定を肯定し、肯定を否定する。 否定すると同時に肯定するという場合であるから矛盾である。肯定と否定 とは相対立した関係である。また「有」と「無」とは対立した関係である。 イロニーの場合は有であると同時に無である。いずれにしてもこれはポエ ジーの世界においてのみ成立する。 (西脇順三郎『詩學』筑摩叢書136/筑摩書房1969.3.31発行/P8-10) 西脇順三郎は、吉岡実が「先生」と呼び、 「西脇順三郎アラベスク」を著わしているほどの存在で、 やっと最近になってぼくのなかでもその意味がわかりかけてきたように思う。 先日本棚で、かつてyuccaの購入していた (にもかかわらずまったく気づいていなかった) この西脇順三郎『詩學』を読み始め、 そこで論じられている「ポエジー」に感嘆している。 しばらくつきあってみることにしたい。 さて、『詩學』の最初の「課題」の章において提示されているのが「イロニー」。 なぜイロニーなのか。 ポエジーはイロニーなのか。 ポエジーは、今あるこの世界のミメーシス的な肯定でもなく、 まったく空想の世界の表出でもなく、 また逆に、世界を否定するのでもなく、 イマジネーションを否定するのでもない。 そこにこそポエジーが成立する場所があるがゆえに、 ポエジーはイロニーなのである。 有か無か、ではなく、 有と無が同時に成立する。 もしくは、有と無が同時に否定される。 さらに有と無の同時成立、同時否定そのものが、 否定されかつ同時に肯定される。 そうしたイロニーの地平において、 ポエジーが展開されてゆく。 ある意味で、思考による一元論の「自由の哲学」と その地平を共有しているポエジー。 そこにこそ精神と自然の根源があるポエジー。 世界はポエジー故に創造された。 そう言ってみることにしようか。 そしてそれがイロニーでないとしたら、 世界の根源を問うことができなくなる、と。 |
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