詩は、表面上何らかの事柄を叙述・陳述しているようでいても、「その 事柄」を叙べることが直接の目的ではなく、そこで用いられている「その 語」「その句」「その文」「その節」の、つながり具合や配置のされ方に よって、他の方法では喚起し得ない独特の想像世界を感じとらせ、また、 その世界での感覚的情緒的な「生」をリアライズするようにと誘うもので ある。 (…) 日本で生まれ、もっぱら日本語で会話し、日本語で考えている私どもに とっては、日本語は不可避の<環境>であるが、また同時に世界と私ども が、直かに向かい合うのを喰い止める<フィルター><安全装置>ーーま あどう呼んでもいいが要するに障壁を形づくっていることも事実である。 この文のはじめのところで、<他の方法では喚起し得ない独特の想像世 界>という言い方をしたが、その<独特の想像世界>とは、想像力によっ て開かれる、この世界(個々人の外界内界を含む)そのもののなまの姿で はなかろうか。結局は、そういうことなのだと、ほぼ直感的に信憑すると ころから、私は詩を書いて来たし、これからも書くことになるだろう、ー ー日本語を(あるいは日本語らしきものを)使って……。 こんな風に考えれば、日本語は、私にとっては、それを用いる以外には 手段がないが、けっしてそれになずみ親しんではならないものということ になる。「日本語に、外国語に対するように、対する」という言説に私が 心のどこかで強く共感するのも、そのせいなのだろう。また、このように 考えるとき、詩の言葉をまさぐって行く上での、いくつかの無用なためら いや困惑が解消され、一種の自由性が得られるという利点もある。 (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P144-146) 「詩的言語」といわれる言語は、 日常においてプラグマティックに使われる言語と区別されるものの、 そのひとつひとつの言葉が根本的に異なっているというのではなく、 いわば、その使われ方が異なっているにすぎない。 すぎない、とはいうものの、それこそが本質的なところなのだ。 同じ素材を使って別の働きを生み出すということ。 その別の働きを生み出すために、 言語に対して慣用的な仕方ではなく、 「異化」的な仕方で接することになる。 そういう意味で、通常使っている日本語も、 すでにそれはまるで外国語のような仕方で使うことにもなる。 「日本語に、外国語に対するように、対する」ということである。 それで思い出すのは、たとえば、 ドイツ在住の作家、多和田葉子である。 その活動は最近ますます注目に値するものとなってきている。 つい先日もまた、「球形時間」など、2冊の作品が刊行されたところ。 多和田葉子に注目しているリービ佐藤は 「多和田葉子はドイツへ行った。ドイツ語の中へ、越境した。 越境してから、また日本語を書いた。」と述べているが、 まさに「越境」によって、 「日本語に、外国語に対するように、対する」、 というのがその基本姿勢だろうと思われる。 「越境」によってしか獲得できない、 言語に対する自由というのがあるのかもしれない。 それはおそらく「意識魂」とも深く関係するものだろう。 あたりまえのように思っているもの、 ゆえに、あたりまえのように使えてしまうもの、 使えるように思っているものを その働きそのものからとらえなおして見ること。 「私」ということにしても、それが意識されることで、 あたりまえのように思っている「私」が ほとんど自分の足を意識して身動きがとれなくなってしまうような状態になる。 その不自由性を通してしか獲得できない自由。 その可能性へと向かう一つの試みとして 「詩的言語」について考えてみることはとても重要だと思われる。 |
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