ポエジー・ノート

13 詩のこわさ


2002.7.21

 

         私には三十年ほど昔の思い出が一つある。まだ学生で、詩を書きはじめ
        て間もなかった頃ですが、「ある程度才能のある詩人なら、自分の信条と
        逆の立場の詩を書いて、他人を幻惑させることもできる。左翼的心情を持
        っていても右翼的な<扇動力>のある詩を書くこともあり得るし、その逆
        もあり得る。それが、詩というものだ」と言って、周囲の友人たちから、
        総反撃をうけました。しかし、私としては、戦時中の詩人たちの<作品>
        のことも、いろいろ知っていましたから、それを背景において<詩のこわ
        さ>を言ったつもりだったのです。
        (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P133)
 
シュタイナーは、医学に関して、
病気を治療することができるためには
病気にすることができなければならない、
という意味のことを語っているが、
このことはほかのさまざまなことについてもいえることであるように思う。
たとえば、悪について知らないで、悪を克服し変容させることはできない。
「善く生きる」ためには、そうでないことが可能であってはじめて可能になる。
 
詩のことばもそうである。
「自分の信条と逆の立場の詩を書いて、他人を幻惑させることもできる」
ことができてはじめて、詩のことばを自覚的に用いることが可能になる。
そうした「こわさ」を知っていること。
そこからしかはじまらないものがある。
 
しかしことばを操る能力を中途半端に持っていたり、
そのことばがいったいどのように影響するかということに
無自覚なままに、その都度の利害によって技術を用いたりすれば、
そのときには、そのことばはまさに凶器にもなり、
人を殺人へ、破壊へと陶酔とともに赴かせるものとさえなる。
 
おそらく上記の引用にあるような
「総反撃」をしていた「周囲の友人たち」は
そのこわさがわからない素朴さのなかでことばを用いていたのだろう。
 
おそらく現代では、これほど広告のコピーのような、
それをつくりだすコピーライターとクライアントの関係のような
ことばの発信者の二重性、三重性のような在り方が氾濫しているために、
そういう素朴な人達はむしろ少ないのかもしれないが、
そのことを慣習のなかではなく、自分の用いていることばにおいて
どれだけ知っているかということがますます重要になってきているのではないか。
 
そして、そのことによってはじめて、
ことばを信頼することもまた可能になってきているのではないか。
ことばでいえないことを知るためには、
ことばでどこまでいえるかを知る必要があるように。
 
 


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