ポエジー・ノート

12 意味生産の「現場」へ


2002.7.17

 

         詩について、私にはかねてから一つの強い思い込みがある。それを、以
        前には<詩は表現ではない>という、いささかならず奇異な言い方で表明
        したことがあったが、その真意は、<詩の作品は、作者があらかじめ抱い
        たしかじかの感懐や印象を、読者に伝達するための手段ではない>という
        ことで、これを逆方向から言うならば、<読者は、作品を通して、作者の
        感懐や印象を受けとるのではない>ということになる。
         むしろ詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見
        するのであり、読者は詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を
        発見するのだ。そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それ
        ぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真
        実」に達しているのでなければならない。つまり、作品は、読者にとって
        も「消費」の対象物ではなく、意味生産の「現場」なのであり、読者は、
        単なる受け取り手の座におさまっていることは許されず、主体的・積極的
        に身を乗り出し、生産にかかわらなければ、「詩」は雲散霧消してしまう。
         詩にとって環境がはなはだ良くないと今しがた言ったのは、右のことが
        あるからで、それというのも、詩の読者(もちろん、そこには詩の批評家、
        そして作者も含まれる)の姿勢が、巨視的に言えば、今日ますます「消費
        的」な傾向を、あらわにして来ているのである。ここにも、おそらく、い
        わゆる大衆消費文化の悪弊があらわれているのだ。
         あらゆることがらに「解説者」があり、その御託宣に耳を傾けて、いや、
        それを聴き流していれば、何やらすべてが判ったような気持ちになれる。
        あるいは、お湯を注いで三分間待てば即席食品の出来上がりで、当座の空
        腹はしのげる。こうした事態が、どうやら、詩の読者にも、その「毒」を
        及ぼしはじめているらしいのである。
        (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P129-130)
 
詩を読むことにかぎらず、
人は存在しているということにおいて、それぞれが
その瞬間瞬間、みずからと世界を、そしてその意味を生産している。
そうしない限り、人は人として存在することはおそらくできない。
 
しかし重要なのはそれをどのように生産するかということである。
たんに、教えられたもの、与えられたものとして模倣的に生産しつづけるか、
それとも、「主体的・積極的に身を乗り出し、生産にかかわ」るか。
 
前者の場合、どんなに活動的に生きていたとしても、
それはたんなる「消費的傾向」でしかない。
つまり、そこには「自由」がない。
権威によって教えられたものにただ従うことで、みずからと世界を生産する。
 
後者の場合、さらにむずかしいのは、
「作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、
普遍的な「真実」に達しているのでなければならない」という点であろう。
つまり、ただ自分勝手な意味生産であってはならないということ。
そういう意味でも、人は詩と、そして、みずからや世界と
意味生産のための格闘を避けられない。
だれも答えを教えてはくれず、アンチョコも存在しないし、
そもそもひとつだけの正解というのもないが、
なんでも答えておけばいいということでもない。
 
詩を、ポエジーを体験するということは、
そこにあって、そこにないものを、
みずからの真実において創り出すということであり、
それによって世界へ帰還するということでもある。
そしてそれが「自由」の獲得でもある。
 
 


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