詩について、私にはかねてから一つの強い思い込みがある。それを、以 前には<詩は表現ではない>という、いささかならず奇異な言い方で表明 したことがあったが、その真意は、<詩の作品は、作者があらかじめ抱い たしかじかの感懐や印象を、読者に伝達するための手段ではない>という ことで、これを逆方向から言うならば、<読者は、作品を通して、作者の 感懐や印象を受けとるのではない>ということになる。 むしろ詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見 するのであり、読者は詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を 発見するのだ。そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それ ぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真 実」に達しているのでなければならない。つまり、作品は、読者にとって も「消費」の対象物ではなく、意味生産の「現場」なのであり、読者は、 単なる受け取り手の座におさまっていることは許されず、主体的・積極的 に身を乗り出し、生産にかかわらなければ、「詩」は雲散霧消してしまう。 詩にとって環境がはなはだ良くないと今しがた言ったのは、右のことが あるからで、それというのも、詩の読者(もちろん、そこには詩の批評家、 そして作者も含まれる)の姿勢が、巨視的に言えば、今日ますます「消費 的」な傾向を、あらわにして来ているのである。ここにも、おそらく、い わゆる大衆消費文化の悪弊があらわれているのだ。 あらゆることがらに「解説者」があり、その御託宣に耳を傾けて、いや、 それを聴き流していれば、何やらすべてが判ったような気持ちになれる。 あるいは、お湯を注いで三分間待てば即席食品の出来上がりで、当座の空 腹はしのげる。こうした事態が、どうやら、詩の読者にも、その「毒」を 及ぼしはじめているらしいのである。 (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P129-130) 詩を読むことにかぎらず、 人は存在しているということにおいて、それぞれが その瞬間瞬間、みずからと世界を、そしてその意味を生産している。 そうしない限り、人は人として存在することはおそらくできない。 しかし重要なのはそれをどのように生産するかということである。 たんに、教えられたもの、与えられたものとして模倣的に生産しつづけるか、 それとも、「主体的・積極的に身を乗り出し、生産にかかわ」るか。 前者の場合、どんなに活動的に生きていたとしても、 それはたんなる「消費的傾向」でしかない。 つまり、そこには「自由」がない。 権威によって教えられたものにただ従うことで、みずからと世界を生産する。 後者の場合、さらにむずかしいのは、 「作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、 普遍的な「真実」に達しているのでなければならない」という点であろう。 つまり、ただ自分勝手な意味生産であってはならないということ。 そういう意味でも、人は詩と、そして、みずからや世界と 意味生産のための格闘を避けられない。 だれも答えを教えてはくれず、アンチョコも存在しないし、 そもそもひとつだけの正解というのもないが、 なんでも答えておけばいいということでもない。 詩を、ポエジーを体験するということは、 そこにあって、そこにないものを、 みずからの真実において創り出すということであり、 それによって世界へ帰還するということでもある。 そしてそれが「自由」の獲得でもある。 |
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