詩が、しかじかの事象や事件や、それらにまつわる感懐の「再現」を目 指すものであるなら、つまり、先立って存在する「原本」に対する「複本」 であるという考えに従うならば、語の「適切な」選択、「適切な」配置と いうことも、原本をいかに良く再現するかの観点から、量り、導くことが できるだろう。しかしながら、詩は、種々様々な、しかじかの原本に対す る複本といったものではない。複本というならば、それは唯一無二の原本 の複本でなければならず、ーーそれはとりも直さず、原本なき複本という ことになろう。ここで「美」とは、唯一無二にして且つ無辺際の原本とい う観念(そして、そのような原本の不在という観念)に深く結びついた一 種の幻惑感であり、それは限りない郷愁と憧れ、むかつく嫌悪と畏怖、畏 敬と冒涜とへの衝動を同時に感じさせずにはいない。ここではすでに「原 本」「複本」という比喩ははじけ飛んでしまう。それはきわめてダイナミ ックな一つの開示であり、われわれは、われわれの生の、ある瞬間に、不 意打ち的にそれを直覚するのだが、けだし、この直覚、この幻惑こそが、 作品とわれわれの実人生とをつなぐ唯一の通い路なのである。 (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P108) 詩は影絵かもしれないが、 影絵のもとの存在しない影絵である。 プラトンの洞窟の比喩が無効になる影絵。 それそのものが開示であるような何か。 影絵がその生命をもちはじめるような何か。 この地上世界がマーヤ、幻の、影絵の世界であるとしても、 そこにおいて、そこにおいてこそ、 生命をもちはじめるもの、そしてその象徴として、 詩は私たちを「幻惑」させる。 その「幻惑」ゆえに、詩は読まれるに値する。 そのことそのものが創造であるがゆえに。 それは神々への冒涜でもあり、 神々が死してそこで再創造される場でもある。 そしてそれこそがこの地上におけるポエジーという創造となる。 詩をある種の感情表現や自己表現であるととらえたとき、 そこにはそうした「原本」の存在が前提となっており、 ただの影絵になってしまうことは否めない。 影絵の詩は詩であるためのポエジーをもはや否定されている。 ポエジーは、作品を通じて、われわれを打つ! 「限りない郷愁と憧れ、むかつく嫌悪と畏怖、畏敬と冒涜とへの衝動」へ。 そこに開示されるもの、創造されるものへ、 ともにダイビングする体験こそが、ポエジーなのかもしれない。 「読む」という行為も、だからこそ創造となり得るのである。 |
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