ポエジー・ノート

11 幻惑


2002.7.13

 

         詩が、しかじかの事象や事件や、それらにまつわる感懐の「再現」を目
        指すものであるなら、つまり、先立って存在する「原本」に対する「複本」
        であるという考えに従うならば、語の「適切な」選択、「適切な」配置と
        いうことも、原本をいかに良く再現するかの観点から、量り、導くことが
        できるだろう。しかしながら、詩は、種々様々な、しかじかの原本に対す
        る複本といったものではない。複本というならば、それは唯一無二の原本
        の複本でなければならず、ーーそれはとりも直さず、原本なき複本という
        ことになろう。ここで「美」とは、唯一無二にして且つ無辺際の原本とい
        う観念(そして、そのような原本の不在という観念)に深く結びついた一
        種の幻惑感であり、それは限りない郷愁と憧れ、むかつく嫌悪と畏怖、畏      
        敬と冒涜とへの衝動を同時に感じさせずにはいない。ここではすでに「原
        本」「複本」という比喩ははじけ飛んでしまう。それはきわめてダイナミ
        ックな一つの開示であり、われわれは、われわれの生の、ある瞬間に、不
        意打ち的にそれを直覚するのだが、けだし、この直覚、この幻惑こそが、
        作品とわれわれの実人生とをつなぐ唯一の通い路なのである。
        (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P108)
 
詩は影絵かもしれないが、
影絵のもとの存在しない影絵である。
プラトンの洞窟の比喩が無効になる影絵。
それそのものが開示であるような何か。
影絵がその生命をもちはじめるような何か。
 
この地上世界がマーヤ、幻の、影絵の世界であるとしても、
そこにおいて、そこにおいてこそ、
生命をもちはじめるもの、そしてその象徴として、
詩は私たちを「幻惑」させる。
 
その「幻惑」ゆえに、詩は読まれるに値する。
そのことそのものが創造であるがゆえに。
それは神々への冒涜でもあり、
神々が死してそこで再創造される場でもある。
そしてそれこそがこの地上におけるポエジーという創造となる。
 
詩をある種の感情表現や自己表現であるととらえたとき、
そこにはそうした「原本」の存在が前提となっており、
ただの影絵になってしまうことは否めない。
影絵の詩は詩であるためのポエジーをもはや否定されている。
 
ポエジーは、作品を通じて、われわれを打つ!
「限りない郷愁と憧れ、むかつく嫌悪と畏怖、畏敬と冒涜とへの衝動」へ。
そこに開示されるもの、創造されるものへ、
ともにダイビングする体験こそが、ポエジーなのかもしれない。
「読む」という行為も、だからこそ創造となり得るのである。
 
 


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