ポエジー・ノート

10 作文のおけいこ


2002.7.8

 

         痛烈な体験(心的、肉体的、個人的、社会的、いずれを問わず)をして、
        「ギャー」とか「グワー」とか、「ムムッ」とか口にしてみても、それは
        勿論詩ではない。詩は言葉によって綴られなければならず、そして言葉と
        は、ことごとくが観念(ランボー)であり、流通貨幣(マラルメ)である
        とき、詩が、かけがえのない個別的体験のおのおのに「直截に」かかわる
        とは何の謂いか。ここで、呼びこまれてくるのが、一つのフィクションと
        しての「いかにも……らしく」の技法(あるいは黙約)ということになろ
        う。こうして、「直截に」「心情そのものを」という要求は、その見かけ
        に全く反して、大変な技巧や意識的操作(あるいは慣習的黙約への乗っか
        り)の要請に他ならないことが明らかになる。作中の「私」、そして「私
        の心情」は、現実のそれではなく、作品とともに生み出されるフィクショ
        ンなのである。
        (入沢康夫『詩にかかわる』思潮社/2002.6.20発行/P93)
 
作品を生み出すのは作者であるが、
その作品内の「作者」はもはや生の作者ではない。
このことはよく誤解されがちだけれど、そこがわかっていないと、
日々行なわれている実際のコミュニケーションとの違いがわからなくなってしまう。
それがわからないままに、国語の問題などで、
「作者の意図は?」という問題が提出されたりもする。
 
それは、テクスト内的なコミュニケーション構造と同時に
テクストの働く社会的コミュニケーション構造の両面での考察でなければならない。
 
かつて数年にわたってそのことを調べ、考えていたことは、
その後、まったくそれとは異なるものについて考える際にも、
直接的ではないとしても、いろんな形でぼくに影響を与えることになっている。
もちろん今もそうである。
そのときに読み始めた現代詩人、入沢康夫の詩や詩論の影響も
そういう意味でぼくにとってはとても大きなものがある。
 
たとえば、それまではまともに文章などを書いたりはしなかったのだけれど、
ネットをはじめたとき、なにがしかのこうした文章を書き始めたときに、
最初に意識したのも、そのときに書いている自分の文章に対する距離だった。
ネットで各文章のことをぼくは「作文のお稽古」というふうに表現していたのだけれど、
実はその「作文のお稽古」というのは、入沢康夫の詩集にある
「売家を一つもっています」という詩の副題にある「作文のおけいこ」からきている。
その詩は、一文一文がほとんど無関係に思える文が
組み合わされて詩になっているというもので、
それまで物心ついてから「作文」というものが
とてもわざとらしいものにしか思えなかったぼくにとって、
ある種の光明のように思えたからだった。
 
それは、ある意味で、書く、文章をつくる、ということ、
ひいていえば、表現することすべてを
虚構化されたコミュニケーション構造において、とらえることから
出発してみることを意味していた。
 
ふつう人は話すことや書くことを直接的な「自己表現」としてとらえ
それを疑ってもみないのだろうけれど、
ほんとうはそうではないのだということは、
少し意識してみるだけでわかる。
 
しかし、その意識は、まるで百足が自分の足を意識するようなもので、
意識しはじめると、かなりな混乱が予想される。
実際、ぼくにとってはかなりな程度においてそうであって、
その自分のそうした混乱に、その混乱の意味を垣間見せてくれたのが、
その「作文のおけいこ」だったということである。
少なくともぼくはそこから出発せざるをえなかった。
 
 


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