NHKのカルチャーアワー「文学と風土」(ラジオ第2放送)で、 この4月から、吉増剛造の「詩をポケットに」が始まる。 早速発売されたばかりのテキストを読み始めている。 文章を書いたり詩を書きますことは、自分のなかの無意識やインスピレ ーションを発掘する、……頭脳や身体の奥を耕す仕草といいますか作業 ともいえますが、それは限りない、予測のつかない仕事というよりも仕 業(英語ではと辞書を引きますと“doing”ーー行ない、行為、振舞い) 挙動ということなのでしょう。 発掘するしわざ、としての書くということ。 ぼくは詩をそんなに読んでいるほうだとはいえないけれど、 なにがしか詩のポエジー性とでもいうものに惹かれ続けているのもあり、 それについてあらためて考えてみたいと思い立った。 ノヴァーリスは、ポエジーについてこう述べている。 ポエジーに対する感覚は、神秘的なものMystizismに対する感覚と多くの 共通点をもつ。それは、固有なもの、個人的なもの、知られていないもの、 秘密のもの、顕現してくるであろうもの、必然的に偶然的なものに対する 感覚である。それは、叙述できないものを、叙述する。見えざるものを見、 感じえないものを感ずる。[…]詩人は、まことに心を喪失しているsinnberaubt−− だからこそすべては、詩人の内に立ち現われる。詩人はもっとも本来的な 意味で、主客体Subject Objectを−−心情と世界を−−表現するvorstellen。 良い詩の無限性、永遠性もここからくる。ポエジーに対する感覚は、予言 の感覚や宗教的な、見者の感覚Sehersinn一般と近い感覚を持つ。詩人は 秩序立て、一つにまとめ、選び、発明する−−そして、詩人自身にも、な ぜこうであって、別様ではないのか、理解できない。 叙述できるもの、見えるもの、感じられるものを図式的に表現するとき、 すでにそこには「創造」ということは死滅している。 いまだ生成の途上にあるもの、今生まれようとしているそのものを表現する。 そのことの不可能性の前での挑戦としてのポエジー。 そんなことをあらためて考えているときに、 ポエジーをめぐるオクタビオ・パスの『弓と竪琴』に出会った。 わたしは詩を書き始めて以来、それが為すに値することであろうか、と 自問してきたーー人生からポエジーを引き出すより、人生をポエジーに 変える方がよいのではなかろうか?そしてポエジーは、詩の創造よりは むしろ、詩的瞬間の創造を、それ本来の目的として持つことはできない のだろうか?ポエジーにおける普遍的感応は可能であろうか? (…) 答えは変化する。なぜなら、問が変わるからである、不動性など幻想で あり、運動の幻影である。しかし、運動もまた別の幻想であり、その変 化のそれぞれにおいて繰り返され、かくして変化しつつあるーー常に同 じーー問を、絶えずわれわれに繰り返している<同じもの>の投影であ る。 (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/2001.6.6発行/P9,12) 詩的瞬間の創造とは、 今まさに生成しようとしているものを表現しようとすること。 しかしそれは常に表現しえない不可能性の前に佇んでいる。 その瞬間をこそ、ぼくは求めているのではないか。 その瞬間をめぐって、 吉増剛造とオクタビオ・パスを導き手にしながら、 しばらく思いのままに逍遙してみることにしたい。 |
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