ポエジー・ノート

0 詩的瞬間の創造


2002.4.5

 

NHKのカルチャーアワー「文学と風土」(ラジオ第2放送)で、
この4月から、吉増剛造の「詩をポケットに」が始まる。
早速発売されたばかりのテキストを読み始めている。
 
        文章を書いたり詩を書きますことは、自分のなかの無意識やインスピレ
        ーションを発掘する、……頭脳や身体の奥を耕す仕草といいますか作業
        ともいえますが、それは限りない、予測のつかない仕事というよりも仕
        業(英語ではと辞書を引きますと“doing”ーー行ない、行為、振舞い)
        挙動ということなのでしょう。
 
発掘するしわざ、としての書くということ。
ぼくは詩をそんなに読んでいるほうだとはいえないけれど、
なにがしか詩のポエジー性とでもいうものに惹かれ続けているのもあり、
それについてあらためて考えてみたいと思い立った。
 
ノヴァーリスは、ポエジーについてこう述べている。
 
        ポエジーに対する感覚は、神秘的なものMystizismに対する感覚と多くの
        共通点をもつ。それは、固有なもの、個人的なもの、知られていないもの、
        秘密のもの、顕現してくるであろうもの、必然的に偶然的なものに対する
        感覚である。それは、叙述できないものを、叙述する。見えざるものを見、
        感じえないものを感ずる。[…]詩人は、まことに心を喪失しているsinnberaubt−−
        だからこそすべては、詩人の内に立ち現われる。詩人はもっとも本来的な
        意味で、主客体Subject Objectを−−心情と世界を−−表現するvorstellen。
        良い詩の無限性、永遠性もここからくる。ポエジーに対する感覚は、予言
        の感覚や宗教的な、見者の感覚Sehersinn一般と近い感覚を持つ。詩人は
        秩序立て、一つにまとめ、選び、発明する−−そして、詩人自身にも、な
        ぜこうであって、別様ではないのか、理解できない。
 
叙述できるもの、見えるもの、感じられるものを図式的に表現するとき、
すでにそこには「創造」ということは死滅している。
いまだ生成の途上にあるもの、今生まれようとしているそのものを表現する。
そのことの不可能性の前での挑戦としてのポエジー。
 
そんなことをあらためて考えているときに、
ポエジーをめぐるオクタビオ・パスの『弓と竪琴』に出会った。
 
        わたしは詩を書き始めて以来、それが為すに値することであろうか、と
        自問してきたーー人生からポエジーを引き出すより、人生をポエジーに
        変える方がよいのではなかろうか?そしてポエジーは、詩の創造よりは
        むしろ、詩的瞬間の創造を、それ本来の目的として持つことはできない
        のだろうか?ポエジーにおける普遍的感応は可能であろうか?
        (…)
        答えは変化する。なぜなら、問が変わるからである、不動性など幻想で
        あり、運動の幻影である。しかし、運動もまた別の幻想であり、その変
        化のそれぞれにおいて繰り返され、かくして変化しつつあるーー常に同
        じーー問を、絶えずわれわれに繰り返している<同じもの>の投影であ
        る。
        (オクタビオ・パス『弓と竪琴』筑摩書房/2001.6.6発行/P9,12)
 
詩的瞬間の創造とは、
今まさに生成しようとしているものを表現しようとすること。
しかしそれは常に表現しえない不可能性の前に佇んでいる。
その瞬間をこそ、ぼくは求めているのではないか。
 
その瞬間をめぐって、
吉増剛造とオクタビオ・パスを導き手にしながら、
しばらく思いのままに逍遙してみることにしたい。
 
 


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