視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.3.27

◎esquisse8   

《幅(点)から奥行き(円)への「自覚」と往還》

・点ではなく述語的統一としての円としての「私」の意識
・無の場所
・有と無・物質空間とエーテル空間
・絶対無の自覚的限定
・絶対の他において自己を見る/
・点と円の往還

◇note8

◎「私」という意識はどこにあるのだろうか。西田幾多郎の論をガイドに見ていきたい。

◎「意識」というのは、目の前にある机だとかいった「対象」ではない。もちろん身体でもない。そのような「対象」となった「意識」はすでに「私」ではない。その意味で「私」という意識は「無」であり、それは「無の場所」にある。それを西田幾多郎は「述語となって主語にならない」と表現している。意識された意識や意識の作用、働きという意味での意識は、すでに一存在者として「有」るのだけれど。

◎その意味で、「私」は一存在者としての「点」ではなく、述語的な「円」であるといえる。故に、「私」は「私」を知ることができない。

◎そこで「自覚」が必要となる。「自覚」というのは、「自己が自己に於いて見る」ということである。円が円において見るということであり、見るといってもこれが私であるというように「点」として見えるものではない。真の自己を見るためには、自己が絶対的な無である「円」という場所こにおいてそれを「自覚」することができなければならない。

◎このことは、以前ノートしたことのある、「虚」としての「エーテル空間」と物質空間との関係で理解することができるかもしれない。

◎私の身体は物質空間のなかに存在するが、私の意識は「虚」としての「エーテル空間」(もしくはアストラル平面からのエーテル平面への射影)である「無の場所」に存在する。

◎その意味で、私はその「無の場所」としての「円」の「自覚的自己限定」によってこの物質的な時空において「点」として顕現しているように見えている。

◎「エーテル空間」でも繰り返し示唆したように、物質世界はエーテル平面が点として射影されたものである。その「点」には無限遠点にまで到るエーテル平面が折りたたまれている。

◎前回のノート7の「鏡面」という観点でいえば、私たちは通常、みずからをこの物質世界という「鏡」に映して世界認識を行っている。その意味では、すべてを鏡像=虚像としてしか認識できないでいる。それを「マーヤ的世界」ということもできるかもしれない。鏡の向こうに「奥行き」として見えているものは真の奥行きではない。物質世界において「奥行き」として見えているものは、そのような鏡に映って見える「奥行き」でしかない。

◎我と汝、私とあなたの関係にしても、物質的な肉体の関係ではなく、いわば人格的な関係を持とうとするならば、話はむずかしくなる。私とあなたはそのまま対面しているように見えても、その実、それぞれがみずからの無の場所といういわば自己否定による「人格的自己の自覚」を通じてしか対することはできない。つまり、「自己の中に絶対の他を見、絶対の他において自己を見る」ということである。

◎その意味でいえば、真の奥行きに向かいそのことを認識するためには、みずからをいわば虚に裏返すことによってみずからを奥行きに置きながら、しかも同時にそれが射影された点においてみずからを認識するという、いってみれば「往還」を可能にしなければならない。手袋を裏返すように点と円が往還する同時性を獲得するということ。西田幾多郎的にいえば、絶対矛盾的自己同一もしくは逆対応ということもできるだろうか。


◇引用テキスト

A)『西田幾多郎哲学論集I 場所・私と汝』(P.141/岩波文庫 1987.11.16)
 すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴わねばならぬ、自覚が経験的判断のすべての述語面となるのである。普通には我という如きものも物と同じく、種々なる性質を有つ主語的統一と考えるが、我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ。我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである。

B)西田幾多郎全集第六巻、「私の絶対無の自覚的限定といふもの」(6-117)
絶対無の自覚といへば、絶対に無なるものが如何にして自覚するかなどといはれるかも知らぬが、私の絶対無といふのは単に何物もないといふ意味ではない。我々の自覚といふのは自己が自己に於いて見るといふことである。しかも自己として何物かが見られるかぎり、それは真の自己ではない、自己自身が見られなくなる時、即ち無にして自己自身を限定すると考へられる時、真の自己を見るのである。即ち真に自覚するのである。かかる意味に於いて絶対に無にして自己自身を限定するのを絶対無の自覚といふのである。そこに我々は真の自己を見るのである。」

C)『西田幾多郎哲学論集I 場所・私と汝』(P.261-262/岩波文庫 1987.11.16)
私と汝とは単に外界を通して相交わるのではない、人格的自己としての私と汝の間には直接の結合というものがなければならむ。私が汝を汝と見ることによって私であり、汝は私を私と見ることによって汝である。表現と考えられるものの底にも、かかる意味がなければならぬ。私と汝とが直ちに結合するといっても、無論単に一となるということを意味するのではない、弁証法的に結合するのである。絶対の否定を通じて相結合するのである。かかる結合が媒介するものなきものの媒介としてかえって真に内的と考えられるのである。自己の中に絶対の他を見、絶対の他において自己を見るということによって、我々の人格的自己の自覚というものが成立するのである。かかる限定が真の愛というべきものである。