視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.3.20

◎esquisse6   

  モナドロジー
  転換可能性(可逆性)
  裏返し
  内と外とがたがいに密着している裏返し点としての「襞」
  交叉配列(キアスム)

◇引用テキスト
(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』より
「研究ノート」1960年11月16日「交叉配列ーー転換可能性」の項/みずず書房 P.388)

   転換可能性ーー裏返しになった手袋の指ーーひとりの目撃者が表裏両方のがわに
  まわってみる必要はない。私が一方のがわで手袋の裏が表に密着しているのを見る
  だけで、私が一方を通して他方に触れるだけで十分である(領野の一点ないし一面
  の二重の「表現」)、交叉配列とは、この転換可能性のことなのである。ーー
   <対自>の<対他>への移行が行われるのも、この転換可能性によってのみである。
  ーー実のところ、私と他者が事実的なもの、事実的な主観性として存しているのでは
  ない。私と他者とは、二つの隠れ処、二つの開在性、何ものかが生起してくる二つの
  舞台なのである。ーーそして、これらはいずれも同じ世界、<存在>という舞台に属
  しているのである。
   <対自>と<対他>とがあるわけではない。それらはたがいに他方の裏面なのである。
  だからこそ、この両者はたがいに合体するのである:投射ー取り込み。ーー私の前に
  いくらかの距離をおいて、私ー他者、他者ー私の振替えがおこなわれる線があり、境界
  面があるのである。ーー
   与えられたただひとつの軸、ーー手袋の指の先は無である。ーーしかし、それはひと
  が裏返すことのできる無であり、そのときひとがそこにもろもろの物を見ることになる
  無なのである。ーー否定的なものが真に存在するただ一つの「場」は襞であり、つまり
  内と外とがたがいに密着しているところ、裏返し点である。ーー

   私ー世界
   私ー他者の交叉配列ーー

  私の身体ともろもろの物の交叉配列、これは私の身体が内と外とに二重化されることーー
  そしてもろもろの物が(それらの内と外とへ)二重化されることーーによって実現される。

◇note6

◎このところメルロ=ポンティをずっと読んでいる。
その思考に少しでも分け入ることで、「見えるもの」の「奥行き」にあるであろう
「見えないもの」へ向かう糸口を、その糸(意図でもあるか)をつかまなければならない。
◎「奥行き」を「観」ようとするならば、ベルクソンの「持続」、
そしてこのメルロ=ポンティの転換可能性(可逆性)、転換可能性(可逆性)を理解する必要がある。
そして、その「奥行き」のいわば表と裏の「間」の「裏返し点」にある「襞」を。
◎「襞」は、ドゥルーズのライプニッツ論でもある。
ライプニッツが示唆した理念の核には「モナド」がある。
◎「延長」を本性とするものには「一」としての「モナド」は存在しない。
「モナド」は、「精神」であり、「一」であり同時に「多」(その表現・表出)でもあり、
過去・現在・未来にわたる無限を含むことができ、しかも「窓」がない。
このライプニッツの「モナドロジー」はまさにバロック的な無限増殖的な「襞」そのものでもある。
それは、一と多はもちろんのこと、生と死、精神と自然を交通させていくマニエリスム的な手法でもある。
◎さて、「見えるもの」が「見える」ということはどういうことだろうか。
それは単に、光が物に当たりそれが眼に入って網膜に映るとかいったものではない。
前回までにも示唆したことだが、「見る」ということは
「見えるもの」を手がつかむようにとらえるということであり、
逆にいえば、「見えるもの」が見ている私を逆につかむということでもなければならない。
芸術においては、それをどのようにして表現するかが最重要になる。
◎このことについて、メルロ=ポンティはこのように示唆している。
「見えるものが私を満たし、私を占有しうるのは、
それを見ている私が無の底からをれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、
見る者としての私もまた見えるものだからにほかならない。
一つ一つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、
それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつきないし重複によって出現して来たもので、
それらと根底では同質だと感することであり、彼が自分に立ち返った見えるものそのものであり、
その引きかえに見えるものが彼の目にとって彼の写しないし彼の肉の延長のごときものとなることなのである。
(同上「問いかけと直観」よりP.158)
◎ここで注意が必要なのは、この転換可能性(可逆性)は、
そのまま同一性ということではないということである。
見るものと見られるもの、触れるものと触れられるものとは否定的な意味での同一性だということ。
上記の引用に、手袋を裏返すという比喩があるが、
このような交叉配列(キアスム)的な関係における否定的な同一性。
見るものと見られるもの、触れるものと触れられるものは、互いに他方の「裏面」なのである。
◎我と汝の関係もそのような交叉配列(キアスム)的な関係においてとらえる必要がある。
そこには手袋のような「襞」という境界線がある。
モナドとモナドとの間の交通もそのようにとらえる必要があり、
その「襞」に一と多、生と死、精神と自然といったものの転換可能性(可逆性)と
バロック的な無限増殖を可能にする境界面がある。
◎見えるものと見えないものは、
そのような交叉配列(キアスム)的な転換可能性(可逆性)において表出され表現される可能性を得る。
私という場において、私の見る世界という場において、
そして逆転したあなたという場において、あなたの見る世界という場において。