視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.3.4

◎esquisse2   

   純粋視覚の不可能性:
  「網膜の受動性」への批判

  松浦/純粋視覚の不可能性こそが、モダニズムの本源的な状態としてありますね。
  岡崎/それは結構重要な気がしますね……当たり前といえば当たり前なんだけれ
  ども、忘れられやすいという気がしますね。たとえば素朴に自然主義的に純粋な
  近くを獲得しようとするとき、デュシャン以来の理念による切断には違和を覚え
  る。あるいは不得手な人たちであろうと、仮の目標として純粋視覚を設定(実際
  そんなことはありえないにしても)すれば、必ずそれを獲得するための方法論な
  り、作業を組み立てなければならなくなるということと意外と同じことなのかも
  しれない。あるいは多分に道徳的信条の違いのようなものかもしれない。その方
  法論に違いがあるとすれば、はじめに経験として意識される自分たちの経験とい
  うのが、そもそも完全にあらかじめ与えられたレディメイドのものだったかもし
  れない、という懐疑があるかどうかだと思う。
   その意味では、歴史的な意識がやはり日本には欠けている。少なくともデュシ
  ャン以降、いやセザンヌだとかスーラとかのことを考えると後期印象派の段階、
  さらに遡ってマネ、クールベのあたりから、すでに、視覚というのは基本的に、
  歴史的に拘束された、与えられたものでしかないという意識がモダニズムのなか
  にはあったと思います。日本にはしばしばそれがなさすぎる。(・・・)
   たとえば、高村光太郎は例の「緑の太陽」で、日本の地方色とは何かという問
  いかけなどナンセンスだと論じた。そういう意味では、彼の見解は先見的なモダ
  ニストのようにも、コスモポリタンのようにも聞こえるけれど、ところが、光太
  郎も結局は、自分が絵を描くかぎり、日本人であしかありえないと語りだしてし
  まう。最後には経験の身体的な自然性というものに帰してしまうところがありま
  したね。
  松浦/この「緑の太陽」と題されたテクストは、まさに世界的な普遍性と、日本
  的な局所性というふたつの概念の対立を演出しながら、両者がいずれも視覚の純
  粋において保証されるという構図になっています。(…)この思考の構図は日本
  型のモダニズムの曖昧なゆらぎというか、無意識的な戦略となっているという点
  で、その後、現在にいたるまで何度となく反復されるひとつの典型的な思考の組
  み立て方といえるでしょう。(P.16-17)

*高村光太郎「緑の太陽」のテクストは以下で読めます(「青空文庫」で作られています)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46507_25640.html

note2
○デュシャンには、「網膜の受動性」への批判がある。いわば経験の自立性というのは、
社会的、歴史的に規定される対象と結びついた自明性とでもいえるようなものを一度、切断しなければならない。
○わたしたちは、たとえばそれを「芸術作品」として見ることで、
今自分が社会的、歴史的に「これが芸術作品だ」という認識形態のなかでしかそれを見ることができなくなっている。
芸術作品以外でも同様で、「これはこういうふうに見なければならない」「こういうふうに見るのが正しい」
というような自動化した認識図式のなかでしか現実とされるものを見ることができなくなっている。
つまり、すべてを「レディメイド」としか見ることができなくなってしまっている。
○見たものをありのままに描くとか、自然をありのままに写し出すとかいうことがよくいわれるが、
そんなことはただの抽象でしかない。
絵ではなく、言葉も同様で、学校の作文で「思ったとおりに書きなさい」といわれたりもするが、
そんなことができると信じているとしたら、それこそが錯誤であり、一種の心の病でしかないとさえいえる。
○たとえば「レアリスム」といえば、
見えるものを見えるとおりに描くという方法だと考えられたりもするのだけれど、
誰も見えるものを見える通りに描いてなどいないし、そんなことなどできはしない。
「見る」という行為と「描く」という行為がレアリスムの立場では、
同時に成立するということになるのだけれど、
描かれる対象は一度、短い時間であれ、なんらかの記憶に置きかえながらでしか描くことはできない。
それをつきつめて考えていくと、描かれるものは、基本的に「見えないもの」「不可視なもの」なのだといえる。
○そこで常に誤解のなかで、というよりも憧れのようなものかもしれないが、
そういう「見えないもの」「不可視なもの」をとらえるためには、
変な作為をもたないで、「素朴さ=プリミティヴな」なかで、
ある意味、素人的にあるいは無意識的の領域のなかでとたわれない視覚をもって
それを表現する方向性をとろうとする方向性がでてくる。
それを方法論として模索するか、非常に素朴にそれが可能だと思い込んでしまっているかはさまざまなのだけれど。
○さて、ついでに日本におけるそうした観点のとらえかたについて、ついでに見ておこうということで、
高村光太郎の「緑の太陽」という評論についての話を挙げておいた。
本書には掲載されていないが、ネット上であったので、参照可能である。
○高村光太郎は、芸術表現というのは自然をありのままに写し出すようなものではないとし、
画家の内面・個性の表出であるとしたが、そこで「日本人」問題を同時にだしていたりもする。
これは芸術以外の側面でもしばしば見られる態度でもある。
これは大変てごわいテーマでもある。
いわば、日本人の身体性とでもいえるテーマでもある。
○ちょうど、「内田樹の研究室」の
「ポストグローバル社会」とナショナリズムについて」に、面白い示唆があった。
いってみれば、「思想は身体に基づいて存在する」という視点。
これは政治思想に関する示唆ではあるが、
芸術を含むさまざまなところでも見逃すことのできない視点であるように思える。
政治的には「どの政治家を信頼するか」ということになるが、
芸術家においても「画家の内面・個性の表出」の背景には、
それを担保するなにがしかの「生身」というか「身体性」を求めざるをえないというところだろうか。
「近代の政治的経験から私たちが導き出すのは、「ナショナリズムと類的存在を架橋する」細い道以外に、
政治的選択肢として可能性のあるものはなさそうだということである。
そして、その場合、「誰を信じるべきか、誰についてゆくべきか」のぎりぎりの基準は、
政策コンテンツの綱領的な整合性や「政治的正しさ」ではなく、その政治思想家の「生身」だということである。」
○ぼくなりの神秘学ととしての視点でいえば、私たちの認識を担保する「生身」「身体性」にしても、
一度はある意味「故郷喪失者」である必要があるといいたいところであるが、
いわば民族的な「生身」「身体性」にみずからのアイデンティティーを
血肉として持っている人にとってはかなりむずかしいところなのかもしれない。
○しかし、視覚の「幅」の呪縛から自由になり、「奥行き」へと向かうためには、
やはり素朴な「受動性」を一度は切断する必要があるように思う。
切断し、「奥行き」へと向かった上で、
ある種の「自然(じねん)」的なありようを獲得することは重要なのだけれど、
最初からみずからを「あるがまま」に投げ出してしまうという態度は、現代では大変な危険性に身を置くことになる。
社会的、歴史的に規定されていることに気づかず、
その(本人はそう思ってなどいないだろうけれど実質的に)「自動機械」のようになってしまうという危険性である。

*「内田樹の研究室」の「「ポストグローバル社会」とナショナリズムについて」は以下で。
http://blog.tatsuru.com/2013/02/27_1227.php