視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.4.19

◎esquisse14    

《荘子の「物化」思想と世界の変容・ヘンシーン!》

・『荘子』の「胡蝶の夢」の物化思想
・自分と蝶とは融合するのではなくそれぞれが他へとの生成変化・変容するということ
「このわたし」が<他なるもの>に変容し、そこから「この世界」そのものも変容する
・「鶏となって時を告げよ!」
・ドゥルーズの「生成変化」の思想
・模倣ではなく構成変化
・ヘンシーン!するためのの技術と営為
・自同性を自縄自縛的に担保している時空認識を「構成変化」させる
・自由の哲学という生成変化・変容のための「縣解」装置

◇note14

◎今回は、「奥行き」に向かうということは、ある種のヘンシーン!でもあるという話を荘子とドゥルーズから。

◎『荘子』の「胡蝶の夢」の話は有名である。荘子が蝶になった夢をみたが、自分が夢を見て蝶となったのか蝶が夢を見て自分になったのかがわからない、という話。しかし、話はそこで終わるわけではない。ここからが主題である。自分と蝶の区別がつかなくなったという話ではなく、自分と蝶とは必ず区別があるはずだという話。ある物からある物への生成変化・変容という「物化」の思想である。(胡蝶の夢の話は、テキストからの引用Aを参照)。

◎この「物化」の思想は、自他の融合の思想ではない。自分か他者かわからなくなったからいっしょになろうというような安易な話ではない。しかし、「このわたし」は「自同性」」という自分以外のものではありえないというある種の束縛から解放される可能性をもっているという。ある種、ヘンシーン!!とでもいうように他なるものへの生成変化・変容が可能であるという話。そして、ここからがさらに重要なのだけれど、「このわたし」が生成変化・変容することで、「この世界」もまた生成変化・変容するというのである。それは、自他の融合して溶け合って仲良くなりましょうというようなことではなく、自と他は自と他のままでありながら、それぞれが、ヘンシーン!!することで、自も他も生成変化・変容するというある種の解放空間の可能性の思想なのである。それが「物化」思想。

◎この胡蝶の夢の物化思想は、大宗師篇の「鶏となって時を告げよ!」という話でさらに明らかにされている(この話については、テキストから引用Cを参照)。変化・変容が縣解(束縛を解くこと)につながるという話。なぜ私たちが束縛されているのかといえば、私たちがヘンシーン!!できないと思い込んでいるからだというのである。

◎今回参考にした中島隆博『荘子/鶏となって時を告げよ』では、この「物化」思想がドゥルーズの「生成変化」の思想(ガタリとの共著『千のプラトー』)と照応させられて論じられているのが興味深い。

◎ドゥルーズにとって「他なるものへの生成変化」とはどういうことを意味しているのだろうか。それは他を模倣することではなく、自分自身でありつつその構成そのものを分子レベルから変化させることだという。面白いのだけれど、ドゥルーズ=ガタリは俳優のロバート・デ・ニーロが映画の一場面でカニのような歩き方をしてみせることについて語っている。デ・ニーロによればこれは決してカニの模倣ではなく、「映像と、あるいは映像の速度と、カニにかかわる<何か>を組み合わせよう」ということだという。要は、カニらしくなるためには、カニになるのではなく、「なんらかの手段と要素を使って、動物の微粒子に特有の運動と静止の関係に組み込まれるような微粒子を放出」しなければならない。実体としてカニになるのではなく、重要なのは構成変化ということなのである。「私たちは動物や花や岩石になるが、こういった事象は分子状の集合体であり、<此性>であって、われわれ人間の外部で認識され、経験や知識や習慣を動員してはじめてそれと知れるようなモル状の主体や客体ではないのだ」。

◎しかし、デ・ニーロにも「なんらかの手段と要素」という技術と営為が必要であるように、私たちがヘンシーン!するためにも、それなりの技術と営為が必要である。自分が自分を束縛している「自同性」、つまり「自分はそういうものだ」という自縄自縛から自由になるためには、自分は自分でありながら、そして他者は他者でありながら、自分で自分を縛っているものに気づき、そこから自由になるの技術と営為に向かって自らを開く必要があるということである。たとえば、傷ついた自分、トラウマにとらわれた自分、等々といったもの(それらはそれと知らず、自分で思い込んだ「道徳」にさえなっている)を退けること。ヘンシーン!である。そして、その自分の生成変化・変容こそが、世界の生成変化・変化となる。

◎「奥行き」を観るということは、今の自分の自同性を自縄自縛的に担保している時空認識を「構成変化」させる必要がある。シュタイナーの『自由の哲学』も、ある意味で自分の自縄自縛的な認識を変化させるための認識論でもあるように思う。「このわたし」を「このわたし」が縛っているものというのはいったい何なのだろう。「そういうものだ」という枷。自分の「そういうものだ」は、世界の「そういうものだ」になっているということに気づけば、自分を生成変化・変容させ「縣解」することは、世界のそれでもあるということがわかる。

◇参考テキストからの引用
中島隆博『荘子/鶏となって時を告げよ』(岩波書店/2009.6.19)

A)『荘子』において、ある物が他の物に生成変化することは、「物化」と呼ばれていた。その「物化」の中で最もよく知られている例は、胡蝶の夢の記事であろう。(・・・)
 かつて荘周が夢を見て蝶となった。ヒラヒラと飛び、蝶であった。自ら楽しんで、心ゆくものであった。荘周であるとはわからなかった。筒全目覚めると、ハッとして荘周であった。荘周が夢を見て蝶となったのか、蝶が夢を見て荘周となったのかわからない。荘周と蝶とは必ず区別があるはずである。だから、これを物化というのである。(『荘子』斉物論篇)
(・・・)
 ただし、ここで是非とも強調していかなければならないことは、「物化」は自他の区別を無にするものではないということだ。もし、「物化」を通じて、自他の区別なく、自他が融合した万物一体の世界が目指されているのなら、「物化」という変化はそもそも不要であるし、何よりも胡蝶の夢の原文において「荘周と蝶とは必ず区別があるはずである」と述べる必要もない。(P.149-150)

B)「物化」においては、「このわたし」とともに「この世界」も変容していた。では、「物化」の究極において、「このわたし」と「この世界」はどうなるのだろうか。『荘子』はそれを徹底的に考えていたと思われる。すなわち、変容した「この世界」が一種の解放空間となり、「わたし」が自同性も含めたあらゆる束縛から自由になるということである。(P.181)

C)小與が答える。「いや、どうして憎いことがあろうか。だんだんとわたしの左腕を化して鶏にするならば、わたしは時を告げることにしよう。だんだんとわたしの右腕を化して弾にするならば、フクロウでも撃って炙りものにしよう。だんだんとわたしの尻を化して車輪にし、心を馬とするならば、それに乗っていこう。馬車に乗らなくても済むようになる。そもそも得たものも時であったし、失うものも順である。時に安んじ、順におれば、哀楽の感情も入ってこない。これが古くから言われていた縣解(束縛を解くこと)である。束縛が解けないのは、物と結びついているからである。そもそも物に天が勝てないこと久しいのであって、わたしがこれを憎むはずもない」。(『荘子』大宗師篇より)(P.182)

D)「生成変化」において、一つの近傍(近さ)が変化すると、他の近傍(近さ)もまた独立に変化する。そして、その結果、(…)この世界そのものが深く変容するのである。「そこでは世界そのものが生成変化を起こし、わたしたちは<みんな>になる」。
 こうしたドゥルーズ的な「生成変化」は、荘子の「物化」と見事に照応している。どちらもが、他なるものへの変化によって、この世界の根底的な変容を究極的にイメージしているのである。(P.189)

E)「物化」の思想は、到来する未来の出来事に自らを開き、「この世界」の変容に賭けるものでもある。それをドゥルーズが、スピノザを通じて、「喜びの倫理」と呼んでいたことを思い出そう。そうすると、『荘子』において問われているのは、過去の出来事に対する悲しみの道徳を退け、未来の出来事に対する「喜びの倫理」に向かう自由ということになる。(P.195)