視覚の奥行きへ向かうためのエスキス 2013.4.28

◎esquisse-interlude3  

 《「奥行き」を観るとは、自分を檻から出すこと》
 ミッシェル・オスロ監督『夜のとばりの物語』から

◇interlude3-note

◎「キリクと魔女」「アズールとアスマール」のミッシェル・オスロ監督の映画『夜のとばりの物語 ―醒めない夢―』の続編がDVDになっていたので観てみた。提供は、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」。

◎好奇心いっぱいの少年と少女が、夜な夜な、古い映画館で映写技師とともにお話を紡いでいくという話。千夜一夜物語のようで、いつまでも観ていたくなる。映像も、息を呑む美しさ。
収められているのは、『怪物のあるじ』『靴職人と夢の橋』『見習い水夫と猫』『魔法使いの弟子』『イワン王子と七変化の姫』の5つの物語が収められている。

◎どれも何度も繰り返し観たくなるが、最初の『怪物のあるじ』はまるで、「洞窟」に閉じ込められている存在が光の世界へと出て行くための秘儀参入の儀式のようだし、『イワン王子と七変化の姫』の話は、話とは直接関係ないが、黄泉の国で姿を変えたイザナミをイザナギがこわがらずに抱きしてあげられたらどんなによかったのに、と思いながら観ていたりもした。

◎四大の解放というのは、カエルの王子様の本来の姿を取り戻させるようなことでもあるが、人と人との関係こそが、特に愛の関係こそがそういうことなのではないかと思っている。相手の何を観ているかということ。人はすぐにだれかの姿に幻滅し愛を失ってしまったりもするけれど、最初観ていたものはただ自分が観たい姿にすぎないだろうし、その観たい姿が観られなくなると裏切られたとか感じたりもするだろう。けれど、大事なのはその後のことだろうと思う。

◎人は仮面(ペルソナ)で顔を覆っているけれど、その仮面は一重ではない、何重にも重ねられている。そして自分も同じくそうした仮面(ペルソナ)で自分の気づかないところも含めて何重にもみずからを覆っている。大切なのは、たんにその仮面(ペルソナ)をひきはがしていくことではなく、その都度、互いを変容させていくことなのだろうと思う。ときに、相手が怪物のように見えてきたとしても、それが自分が鏡に映っているぎすぎないこともあるのだと思う。けれど、愛の力が足りないと、単なる共依存関係に陥ったり、相手を非難することで自分の小さなエゴを守ろうとするだけだったりする。

◎今、「奥行き」を観るためのメモをときおり記しているけれど、「奥行き」を観るということは、単に、超感覚的な知覚を得ようとかいう話ではなく、自分が自分を閉じ込めている檻からどうしたら脱出することができるかという話でもあると思っている。そのためにも、自分で自分を閉じ込めている檻とはいったい何だろうということに気づき、そこから脱出するためのさまざまな物語を紡いでみることも有効ではないかと思う。

◎「檻」はひとそれぞれにさまざまな姿をとって現れてきているはずである。まずは、その檻に気づいてそこらら出ようとすること。ヴィトゲンシュタインも、哲学の本質とは「ハエ取り壺からハエを導き出す」ことだという意味のことを言っているが、その通りだと思う。そのときはじめて、これまで見えないでいた「奥行き」がさまざまな姿をとって現れてくるはずである。

《夜のとばりの物語》続編の予告編がYouTubeで見られるので、どうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=-15fH5JnW-U