西田幾多郎


西田幾多郎「我と汝」

西田幾多郎・ホワイトヘッドの文献引用紹介

述語的統一の場における認識とは・・・

場所論の射程

究極の大統一場理論●神秘学・・・なんて

我と汝

対話●自己への自由と自己からの自由

西田哲学で現代社会を観る

<我>と<汝>の出会いとしての「虚」

我と汝●間の無底的な深み

 

 

 

西田幾多郎「我と汝」


(91/11/11)

 

 西田幾多郎の場所論、ないし述語論理について。

 「私」が「私ならざるもの」に出会う「場所」に成立する「自覚」のこと。「自己」と「他者」との関係について。以前「どきっ」としたことのある、「私と汝」という論文より。

 「自己が自己を知るということは自己に於いて絶対の他を認めることである。[・・・]しかし、かかる関係は直に之を逆に見ることができる。自己が自己のなかに絶対の他を認めることによって無媒介的に他に移り行くと考える代わりに、かかる過程は絶対の他の中に私を見、他が他自身を限定することが私が私自身を限定することであると考えることができる。私が内的に他に移り行くといふことは逆に他が内的に私に入ってくるといふ意味を有つていなければならない。」

 「自己が自己自身の底に自己の根底として絶対の他を見るといふことによって自己が他の内に没し去る、即ち私が他において私自身を失ふ、これと共に汝も亦この他に於いて汝自身を失はなければならない、私はこの他において汝の呼声を、汝はこの他に於いて私の呼声を聞くといふことができる。」

 

 

 

西田幾多郎・ホワイトヘッドの文献引用紹介


(92/05/06)

 西田幾多郎とホワイトヘッドについての山本誠作さんの著作の紹介をしておきます。併せて、それぞれの著作のなかから面白そうな箇所を引用しておくことにします。

 ちょっとムツカシクなるかもしれないけど、おそらく生成発展する宇宙観というビジョンを持つためにはこの両者の比較検討と併せてシュタイナーの宇宙観を併せてみていくと、なかなかにぞくぞくするようなビジョンが立ち現れてくるような予感がします。これこそが、この世紀末に必要な宇宙観であると思っていたりします。

 おそらく、このビジョンと併せて浮かび上がってくるのが「自由の哲学」に代表される自由の問題で、さらにこの問題は、カルマ論や武士道などの日本精神などのテーマとも密接にリンクしてくることは確実で、そうしたテーマの確固とした裏付けや発展的議論のためにも、一度は見ておきたいテーマだと思っているわけです。

  

●山本誠作:ホワイトヘッドと西田哲学(行路社) 

【時空的統一体としてのアクチュアル・エンティティーについての説明部分です】(P11〜P14)

「あるホワイトヘッド学者はこうしたプロセス思想を『われわれの存在とわれわれが住んでいる世界とが、動態的で生きた進化的性質をもつことを真摯に受け取る世界観に通常与えられる名称である』と述べている。こうしたプロセス思想は、しかしながら、ホワイトヘッドだけの専売特許ではないであろう。ギリシャにおいて、哲学思想のれい明期に、ヘラクレイトスはすでに『万物は流転する』とのことわりを喝破している。また東洋の仏教思想のなかに、諸法無我、無自性=空の立場に立って、すべての事物が縁起の理法に従って、因となり縁となって生々流転している無情の世界が諸法の実相だとされているが、こうした考え方も、プロセス思想の一例として挙げることができるであろう。」

「量子力学は物質を構成する最小の単位を量子という概念の下で把えようとする。そして物質をこうした極微の世界にまで分析を進めていけば、それはさまざまの量子が絶えず交替しながら力動的に運動変化している有機体的なものとみなされる。この点について、ホワイトヘッドはこう書いている。『物理学の言葉で言えば、唯物論から、新しい展望がそうよばれるような『有機体的リアリズム』への変化は、静的素材の観念を流動的エネルギーの観念で置き換えることである。こうしたエネルギーは、その作用と流動の構造を有しており、こうした構造を離れては考えられない』と。

 では、物質と互換的なエネルギーの流れはどのような構造をもっているのであろうか。量子とか光量子が粒子性と波動性という一見相反する性格を示すことは、周知の現象である。ホワイトヘッドによれば、物理科学は、電子とか陽子とか光子といった自然的契機、つまり量子を『エネルギーの場所とみなしている。その契機は何であれそのエネルギーを住まわせている個体的事実である』。他方、こうした契機は、『そのエネルギーを自然の過去から継承し、未来に伝達する仕方によって、全面的に形成されている』。そして、一つの契機から他の契機への連続的な移行において、エネルギーの流れが形成されるのである。こうして、量子は連続的であるとともに不連続であり、時間的であるとともに空間的である。言い換えると、量子は時空的統一体である。

 また、われわれは自らのうちで直接自証される人間経験について考えてみよう。例えば、『今、ここ』での現在に関して言うと、それはいつも過去を記憶を通して含み、未来を予想している。現在は過去ならびに未来と結びつく。このことは、現在が空間的な広がりを開いてくることを意味する。そこではホワイトヘッドが言うように、時間が『停留する』のである。こうして停留する時間は持続と呼ばれるであろう。こうした持続を通して、人間経験はそのつど原子的個体性を実現する。そして個体性を実現し終わることによって、次の現在へと移行していく。そこに現在から現在への連続的な移行がある。それがジェーズムのいう経験の流れに外ならないであろう。

 このように考えてくると、エネルギーの流れと人間経験の間には、類似性があることが分かる。この点について、ホワイトヘッドはこう述べている。『物理的自然における特殊な契機から特殊な契機へのエネルギーの転移と、人間の人格性における一つの契機から他の契機への情緒的エネルギーを伴った情感的色調の転移との間には、類似がある』と。

 ホワイトヘッドは、物理学的領域から取り出された時空的統一体としての量子に対応するものとして、現実的実質(アクチュアルエンティティー)なる概念を導き出してくる。そしてそれを想像力を通して一般化して、人間経験をも含むすべてに適用しようとするのである。」

  

●山本誠作:無とプロセス/西田思想の展開をめぐって(行路社)(P164) 

「私自身、西洋の哲学者のうちで、西田哲学に最も近い思想を展開した人は誰かと自問してみると、A.N.ホワイトヘッドに指を屈する外ないと思う。(中略)

 まず類似点についてであるが、私は次の点を挙示できると思う。第一に、西田の個物の概念はホワイトヘッドでは現実的実質(actual entity)に相当すること、第二に、両者の宗教思想はともに万有神論によって性格づけられうること、第三に、われわれが世界のなかに置かれて、被限定即能限定的に創造的世界の創造的要素になっていくという、そのつどの本来的自己の立場を両者は哲学的に表現しようと試みていること、そして最後に、還元主義的考え方ではなく、全体論的立場(holistic standpoint)に立っていること、を挙げることができる。

 

●山本誠作:ホワイトヘッドと現代/有機体的世界観の構想(行路社)(P216/あとがき) 

「ホワイトヘッドの思想の核心は何か、と問われれば、私は躊躇なく、次のように答えたいと思う。すなわち、人間がそれ自身の世界に置かれて、それによって限定されながら自らを限定するそのつど----そこでは人間は他人と代替不可能な独自性においてある----、人間は神と面々相接している、ということ、そして、こうした瞬間は次の瞬間へと移行していくのであり、世界はこの瞬間から瞬間への移行において、人間の被限定即能限定的な働きを媒介にして、いわゆる『文明化』に向かって、絶えず創造的に前進しつつある、ということである。ホワイトヘッドによれば、人間が神と面々相接しつつ、世界の自己形成作用の焦点になるそのつど、人間は善なる存在として捉えられている。ここで、善というのは、人間のうちにそのつど働く諸要素がコントラストにもとづいて全体的調和のうちに秩序づけられている、ということである。こうした善なる人間を私はかつて、拙著『無とプロセス』では、西谷啓治の用語法を借用して、『自己ならぬ自己』という概念で捉えたのであるが、ホワイトヘッドには人間を善なる存在として楽観的に捉えようとする傾向が強いのではなかろうか。確かに彼は悪の存在を無視しているわけではない。しかし、ホワイトヘッドの見解では、悪は結局のところ、人間を形成する諸要素が相互に衝突しあう状態、つまり『麻痺』という用語によって消極的な仕方で捉えられているにすぎない。こうした悪は、美的悪として、かえって善を引き立たせるという役割をこそ担っているのである。はたせるかな、ホワイトヘッドは相互に衝突する諸要素を、より高次の立場で調和的に統一するところの『背景へと還元する方法』について語っている。 

 こうした考え方は確かに楽観的であり、そして人間の被限定即能限定的な動きを媒介にして、世界が文明化に向かって絶えず創造的に前進しつつあるとする彼の螺旋的歴史観は、エントロピーの増大により、地球はやがて壊滅するとする一部の科学者の主張と真っ向から矛盾対立している、しかしわれわれは、ホワイトヘッドの考え方を科学的に実証されるべき学説としてではなく、むしろ彼の壮大な形而上学的宇宙論から導き出された、まさに『かくあるべき』哲学論として受け取らねばならないのではないだろうか。」

 「自由」の核をなすものと思われる時空連続体のアクチュアル・エンティティーによる世界創造の契機によって「かくあるべし」という「理想」にむかっていく人間の精神におおいなる宇宙進化の螺旋上の生成発展をみたいところです。

 

 

 

述語的統一の場における認識とは・・・


(92/06/24)

 

 「思考」には確かに「作用」であって、しかも「道具」的な要素はありますね、でも必ずしもふつう使われる意味での「論理」とは言い切れないでしょう。また、認識論っていうのは多くは主観−客観の対立から論じられることが多いのは確かですね。「思考」を強化しても「認識」にならないのもその通りでしょう。

 問題はそこからだ、というような気がします。そこらへんの問題について、僕が気になって仕方がない西田幾多郎についての関連で少しだけ。

 西田幾多郎には「純粋経験」という考え方があり、それは未だ主観と客観とが分かれず、認識とその対象とが一致しているものであるが故にその働きは個人に先だって存在されるものとされています。西田幾多郎はこのような主−客がまだ分かれていない直接経験として、「自然」や「精神」や「神」をとらえ直そうとしていたようです。

 この「純粋経験」というのは、シュタイナーのいう意味での「(純粋)思考」に酷似しています。違いはといえば、「純粋経験」がある意味で禅の「悟り」のイメージがあるのに対して、「思考」はもっと色づけがない純粋経験の素材部分のような感じがしますが、おそらくこれは西洋と東洋とのアプローチの違いのようです。

 で、西田幾多郎は、ふつうは主語的統一と考えられている「自己」がそこで何かが起こる「場所」、つまり「述語的統一」と見られるべきだといいます。だから、認識論にしても主−客の対立からではなく、むしろ自己=意識から出発すべきであって、認識の根本は「自己の中に自己を映す」ことに求められます。

 さて、その考え方に基づいて、西田幾多郎は3つの場所について論じています。その3つとは、まず物の世界としての「有の場所」、そこでは、「作用」が見られ、次に、自己=意識の世界としての「相対無の場所」、そこでは、「意識作用」が見られ、そして、意識野の底を破った世界である「叡智的自己の世界」としての「絶対無の場所」、そこでは「真の自由意志」が見られます。

 おそらく、この叡智的世界としての「絶対無の場所」というのは「シュタイナー的にいうと「霊界」に対応するような気がします。シュタイナーのいう「思考」というのは、「想念」的なものではなく、「人間は思考を通して個人生活の圏外へ出ていく。彼は自分の魂を超越した何かを手にいれる。思考の法則が宇宙の秩序と一致していることは、彼にとって疑う余地のない事実なのだ。」(「神智学」P51)というように、主−客という図式を離れたものですから、シュタイナー的にいう思考はこの絶対無の世界で、自己という場所に自己を映し出すための大切な働きを担っていると思われます。

 

 

場所論の射程


(92/08/09)

 

 「場」についてですが、「いのちの場」のリズム、振動ということでは、量子力学的世界観ということは念頭にありました。「そんなつもり」もあったのです(^^)。

 ニールス・ボーア、ハイゼンベルグ、それから比較的最近のデヴィッド・ボームなど量子力学と神秘学というのはもっとテーマ化されてもいいように思えます。

 そういえば、デヴィッド・ボームには、クリシュナムルティとの対談があります。「真理の種子」(めるくまーる社)で、クリシュナムルティ関係では最近訳された子供たちとの対話のような教育ものと並んで個人的には気に入っているもののひとつです。僕はわりとクリシュナムルティにはあんまりいいことをいわないことが多いけどもちろん、「まっとうさ」でいえば、クリシュナムルティの右に出るものはなかなかいないのではないかと思っているくらいです。

 「量子力学」ということでひさびさ思いだしたのが「超弦理論」。僕はわりとこれが気に入っているのですが、なぜかというと、宇宙は時間性を内包した振動を基軸として展開する「いのちの場」であるという僕の勝手な考え方(^^;)と相通じるものがあるからで、ホワイトヘッドなんかに注目しているのも、ライプニッツのモナドの考え方に、時間性というものをプラスしたダイナミックな考え方にひかれているからです。ここらへんいついても今後僕の大きなテーマでもあります。

 さて、「場所」についての考え方の展開している範囲ですが、普通考えるよりも遥かに射程が広いようです。それを示唆する意味でも、前回紹介した、中村雄二郎さんの「場所」(弘文堂)の目次を呈示してみることにします。 

●序説/場所・場・トポス

●第一章/自然哲学・修辞学の<場所>

 一)空虚をめぐって 二)質的自然観と自然的位置 

 三)トピカとトポス 四)トポスの喪失と<方法>

●第二章/物理学の<場>

 一)非場所としての絶対空間 二)電磁場の発見とエーテル

 三)重力場と空間の非ユークリッド化 四)量子場とコスモスへの回帰

●第三章/非線系の物質系から生命系へ

 一)サイバネティックス再考 二)物質の散逸構造

 三)自己組織系と生物 四)個体と形態形成場

●第四章/基体としての場所

 一)存在根拠としての場所 二)場所としての身体

 三)象徴空間としての場所 四)言語的トポス

●第五章/述語的世界としての場所

 一)述語論理学の存在論 二)場所の論理

 三)日本語の論理と<場面>の支配 四)パレオロジックと分裂病

●終章

 一)生命場と情報 二)人工知能とトポイ・カタログ

 三)リズムの宇宙性と共振 四)主体と場所----結びに代えて

 これをみただけでも、「場所」についての考え方がすごく広い適用範囲をもったかなり重要なコンセプトであることは十分に理解できるものと思われます。

 宇宙を宇宙として成立させているのは「響き」「リズム」であり、つまりは宇宙はハーモニーの場であるとイマジネーションするのも楽しいですね。

 

 

 

究極の大統一場理論●神秘学・・・なんて


(92/08/11)

 

 さて、超弦理論。

 僕もよくわからないところがたくさんありますが、結局、ひょんなところからころがりでてきた(?)「統一場理論」なわけで、まだまだどうなるかはわからないようですが、個人的にいうと「次元」ということまでも射程に入れたもっともファンタジーをかきたててくれる理論には間違いありません。手元にある「超弦理論「についての手ごろな解説書をご紹介しておきます。(手ごろ、というのは中学のころからお世話になっているブルーバックスですが)

●M.カク&J.トレイナー:アインシュタインを超える/超弦理論が語る宇宙の姿(B714)

●広瀬立成:超ひも理論と「影の世界」(B789)

●F.D.ピート:超ひも理論入門(上・下)(B83・B832)

「昔は、ものは原子から、そして原子は陽子と中性子からできていると教わった。小さな黒い(?)粒が究極のものだと教わった。時がたち、究極の粒は実は究極のものではなく、クォークなるものからできていると聞いた。クォークって何だろうと思っているうちに、クォークには色がついて、さらには香り(フレーバー)までついた。

何だかわけがわからない、と思っていたら、今度は究極のものはひもなんだ、といわれた。世界は黒くて固い粒からできていると思っていたのに、形もあいまいなひも状のものからできているという。時間と空間もない世界をひもがふわふわ漂っている。こんなイメージが外から見た今の物理学だろう。」

                  (超ひも理論入門/訳者あとがき より)

「アインシュタインがついに果たせなかった夢----統一場理論を、今、超弦理論が実現しようとしている。この理論によれば、もともとの宇宙は現在の4次元ではなく10次元であった。しかし不安定なため、2つのかけらに割れて、小さな4次元宇宙(われわれの宇宙)がほかの6次元宇宙からはげ落ちた。そして、この分裂があまりに激しかったために、ビッグ・バンと呼ばれる大爆発が起きたという・・・」(「アインシュタインを超える」より)

  宇宙は「弦」でできているというイマジネーションは、宇宙が壮大な音楽であるというイメージにもつながるが故に神秘学にさらに接近した理論のような感じもします。

 神秘学こそが「いのちの場」をふくみこんだ「宇宙」を統一的に説明できる「大統一場理論」であるという究極のイマジネーションなどいかがでしょうか。

  

 

我と汝


(92/08/29)

 

 僕は「己と他者の分断性」から、「悲しみ」というよりも「孤独」を見いだしながら、それだからこそそれらは「自由」と「創造」の源泉になっていると思ってますし、分断されているからこそ「愛」ということも大きな意味がでてくるのではないか、とまあそういうふうなばくぜんとした意見などもっているからなのです。

 それとやっぱり「運・不運」という表現はどうかなあ、と。僕だと「諸行無常」とか「諸法無我」とかいうことから攻めていきたいというのもあるわけです。「運・不運」というのは、やっぱり「己」と「他者」を実体化してしまいます。不運だと思う人が己を含む世界を構成していたとしても、その「不運」だという感じ方というのは、「己と他者」をますます分断させていくものでしかありません。

 それから、述語的世界というか場所の論理というのにも注目したいな、というのもあります。主語的統一としての自己ではなく、述語的統一としての自己ということです。

 判断というのは、特殊(主語)が一般(述語)のうちに包摂されること、つまり、特殊が一般においてあることであって、SはPであるというのは、一般者の自己限定として考えられます。そしてそうした判断が現実に妥当するためには、その根底に、自己において自己を映す場所としての具体的一般者がなくてはなりません。この場所の考え方は、主語的な方向性(一般者の求心的方向)と述語的な方向性(一般者の遠心的方向)という2つの方向性をもっています。

 で、なぜ自己というのを述語的にとらえるのかということですが、自己というのをひとつの点ではなくて、「円」としてとらえるとすればその円的な、無意識をふくんだ統合、身体へのひろがりをもったものとしてとらえることができるからなのです。

 この西田幾多郎のいう述語論理をつきつめていくことによってはじめて「己と他者の分断性」ではなく、無の場所におけるその出会いということが可能になるということでもあるのです。「我−汝」が、「愛」によって、孤独や悲しみを超えて、「自由」や「創造」を見いだすためには、僕としてはそうした述語的な世界としての場所を考えたいところなわけです。

 西田幾多郎のこんなことばがあります。

「私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝を包摂する如何なる一般者もない。しかし、私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝の底に私がある。絶対に他なるが故に、結びつくのである。」

 「自由」や「創造」というのは僕の思いこみかもしれないけれど、やはり、それにこだわっていきながら、同時に「我」と「汝」の壁を打ち抜く「愛」についてもこだわっていきたいと思います。

 

 

対話●自己への自由と自己からの自由


(92/08/29)

 

 我と汝の断絶による悲しみとかいう話がありましたが、やはり、私はあなたではなく、あなたは私ではない、ということは決定的なところがあって、だからこそ人が人を理解するということの大切さがクローズアップされてきます。

 「我と汝」というマルチン・ブーバーの著作のなかに「人間存在の原本的事実は、人間と共にある人間ということである」というところがあるのですが、日本語で「人間」というときの「間」という表現はなかなか興味深いなあと以前から思ってきました。

 「間」というのは、我と汝の両方に開かれている相互主体的な場であって、決して一方的に対象化するようなものではありません。現代哲学などではよく相互主観性とか間主観性とかいわれますが、そうした「相互性」ということはもっと注目されていいと思います。

 ただ、この場合重要なことはそうした「我と汝」という相互性が成立するためには「我」の優位性が否定されなければならないということで、先のブーバーは、こうした我の優位性を絶対的に押し返してくるような向こうからの出会いの力のことを「永遠の汝」と表現しています。なかなか面白い表現でしょう、この「永遠の汝」というのは。

 で、この我と汝を「対話」で考えてみると、自分が話し手の場合は自分が「我と汝」の主となり、相手の言うことを聞くということは、その主を相手に譲るということです。そして、対話が成立するためには自分の言うべきことが主体的にあり、また相手の言うことを自分の我を捨てて聞くということというその二つのことが我と汝の間で相互転換できなければなりません。

 ちょうどここに西田幾多郎の研究者でもある上田閑照さんの「生きるということ/経験と自覚」(人文書院)というのがあって、そうした対話についての興味深い記述がありましたので紹介しましょう。 

「自他の間でのそのような主の交換は、自己の側に即して見ますと、次のように言うことが出来るでしょう。自分が主となって話すということは自己への自由であり、相手に主を譲って聞くということは自己からの自由です。真の自己は、自己からの自由と自己への自由とが結びつき相即することろにあります。その相即がほどけてしまって別々になりますと、自己への自由は自己への固執に変質し、自己からの自由は自己喪失に変質してしまいます。自己への自由と自己からの自由の相即、即ち真の自己の現場が対話である『我と汝』に外なりません。その相即はまた自己から出て自己に帰る運動と言うことが出来、そのような運動が真の自己であるわけです。それは直線的な自己同一ではなく、自己ならざる他者を通っての運動です。対話は双方とも自己から出て、相手を通ってより深く自己に帰ってくる、あるいは自己の枠が相手によって破られて自分が新しくなる、というように相互に助け合うことと言えます。それは自己への自由を助け合う肯定の暖かさの交換であるとともに、自己からの自由を助け合う否定の厳しさの交換です。話し合い聞き合う対話はこのようにして具体的にかつ深く、「存在する」という動詞としての人間存在そのものです。」

 先日の「愛」の話にもあった「みずからの供犠」というのは、こうした我と汝とのスリリングな相互性にも現れていますよね。そして、それは暖かさと厳しさという両面をもちながら、お互いを「自由」にしていく行為だと思います。もしそれでお互いが真の意味で「不自由」になるとしたら、その対話には「愛」はないということかもしれないと考えているのです。

 

 

 

西田哲学で現代社会を観る


(92/10/07)

 

 西田幾多郎の哲学の社会実践的な部分を非常にわかりやすく解説し、テーマ別に現代の問題へつながるものとしてとらえた格好の本がでましたのでほとんど引用と目次ばかりになりますが、ご紹介したいと思います。 

●根井康之:西田哲学で現代社会を観る(農文協) 

◆帯の紹介

人間を自由にするはずの生産力の発達が自然と人間を破壊するに至ったいま、近代がもたらした<主−客>の対立を根源的に克服する”行為的直観”を社会の認識にまで押し広げ、現代の諸問題の解決に迫る。

◆「はしがき」より

一般的には、西田哲学は、日本近代がうんだ独創的な哲学ではあっても、世界的な普遍性をもたない特異な理論体系であるとか、社会の具体的な問題ともっともむすびつきにくい抽象的な論理である、というふうに受けとめられている。だが、西田哲学は、近代的な世界認識のパラダイムを形成した近代自然科学の方法を根本的に転換した--相対性理論や量子力学の哲学的基礎づけという性格をもっているのである。 

西田はそのような新しい自然認識をふまえるとともに、仏教思想を論理化することによって、近代の客観主義のみならず、ギリシャ以来の西洋思想の伝統を乗り越えようとしたフッサールやハイデッガーの限界の克服をめざすフーコーやデリダといった、いわゆる「ポスト構造主義」を先取りしているとすらいえる。

しかも、西田は、三木清や戸坂潤といった弟子がマルクス主義へと向かったこともあって、すでに戦前に、『経済学・哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』『資本論』等のマルクス思想と直接対決し、マルクスの弁証法・社会認識を自己の論理のうちに包摂しようとしたのである。ソ連・東欧における社会主義の崩壊によって、マルクス主義の思想的崩壊によって、マルクス主義の思想的有効性がきびしく問い直される今日、西田哲学は、客観的・合理的社会認識を超えるものとして大きな可能性をもっている。[・・・]

本書では、西田哲学が分析対象としている次元を、自然と人間、環境の人間形成力と人間の環境形成力とが根源的に統一され、個人が相互に作用しあう場所として位置づけ、そこから社会と歴史をとらえ返している。それによって、現代の諸問題をめぐる実践・運動の総体が、その場所を共通の基盤として、自然と人間の調和、人間どうしの調和という究極的な共通目標に向かうものとして形成されてきていることを明らかにした。

したがって、西田哲学の具体化としての現実の諸問題についての認識は、それらの解決をめざす実践・運動そのものの対自化という性格をもっている。

 

◆目次

I 現代社会の根本矛盾を西田哲学でとらえる

  1 社会システムによる生活の支配

  2 新しいパラダイムとしての西田哲学

  3 「創造的モナドロジー」から個人−地域−世界をみる

 

II 現代の諸問題の解決方向を西田哲学て示す

  1 農業生産/風土・耕地・作物・人の生きた系を「場所の論理」でとらえる

  2 工業生産/環境と人間との相互作用を媒介し制御する労働・生産システム

  3 消  費/生活能力を高め個性的・全体的な人格を形成する消費のあり方

  4 環  境/人間主体的な生態系・場所として人間形成力をもつ環境

  5 都市問題/自然と人間との調和のとれた都市のアメニティの形成へ

  6 農村問題/「歴史的生命」の形成作用としての農業の公益的機能

  7 教  育/子どもと教師の相互応答関係と地域の教育力による全人格の形成

  8 医療/”丸ごとの人間”をとらえる「生命」観への転換と医療システムの再編

  9 食生活/環境と相互作用する「歴史的身体」をつくる「技術」と食生活の体系

 

III 西田哲学のカテゴリーを社会認識へ具体化する

  1 行為的直観/世界を身体とする人間における働くことと観ることとの統一

  2 絶対的矛盾的自己同一/全体的一としての創造的世界と個的多としての自

    由な自己

  3 表現と行為/「歴史的生命」を表現する対象は人間を行動へと動かす

  4 歴史的現在(行為的現在)/時間と空間 過去と未来が統一される場所−

    「いま・ここ」

  5 プラクシスとポイエシス/物を形成することと自己を形成することとの統一

  6 私と汝/人格と人格との働きかけ・働きかけられる相互応答関係

  7 環境と主体/環境の人間形成力と人間の環境形成力による歴史的進展

 

IV 社会認識を「場所の論理」で基礎づける

  1 シンボル体系・社会システムと個人

  2 制度的社会と「創造的モナドロジーの世界」

 

V 西田哲学で現代世界を歴史のうちに位置づける

  1 自然史における人類史の位置/人間中心の歴史観を克服する

  2 人類史における現代世界の位置/自然と人間の統一・全人格的生活の実現へ

  3現代世界の歴史的展開方向/「歴史的生命」を表現する地域的-国際的システム

 西田哲学はこうのように社会実践としてとらえても、また神秘学的な認識論ととらえても無限の宝庫であると思います。

 

 

<我>と<汝>の出会いとしての「虚」


(93/04/08)

 

 ご提示いただいた「我と汝」というテーマは、非常に根源的なテーマのひとつで、興味深く読ませていただきました。

 以前から興味深く思っていることに、よく指摘される日本語の人称表現があります。「われ」や「おのれ」「手前(てまえ、テメエ)」という言葉は、「私」を指したり、「あなた」を指したりするということなのですが、河合隼雄さんなんかもよく指摘しているように、西洋と日本というのは、「自我」の在り方が異なっていて、こうした日本語のような表現は、西洋ではまず考えられないと思います。

 つまり、日本語の表現そのものには、「我を映す“鏡としての他者”との出合い」ということが、自我を屹立させないままに融合しているようなのです。つまり、<我−汝>が「場」として働いているといえましょうか。神道的な「鏡」の考え方というのも、そうした「場」をどこまでも磨いていくということを理想としていたのかもしれません。

 ブーバーの考え方というのは、おそらくこうした考え方を西洋的な「自我」の発想を基点として、それを乗り越えていこうとして切実なテーマとして提示したものであるような気がします。

 例の「声の秘密」に非常に興味深いことが述べられてありました。ここでは声楽というか歌唱ということと、シュタイナー的な霊学における「声」というか「言霊」とがテーマになっているのですが、本来の声というのは、決して「私」が発するのではなくて、むしろ「私」が「虚しく」なったときにこそ発せられるというのです。そのためにはむしろひたすら忍耐に忍耐を重ねて、内なる耳によって「聞く」ことを続けなければならないといいます。本来の声とは、私という虚へと訪れる(音連れる?)もので、「私」がいるときには決して訪れない波動エネルギーなわけです。

 このことで、はたと思いだしたのが、弓道についてのヘリゲルの著作でした。そのなかでも、「私」がいないときに、弓を射る行為そのものが的になる、というような内容のことが述べられていたように記憶しています。

 宗教的に語られることの多い「供犠」ということも、この関連で考えていくと、その本来の意味が理解されるように思われます。つまり、「与える」という愛の行為によってのみ「得る」、そこに「私がいない」ことによってもっとも「私がいる」、というカルマ的な逆説です。

 「我−汝」ということも、「我」があるときにそれは出会わず、「我」がないときに出会うという逆説を理解しなければならないと思います。この「汝」ということは、「自己」でもあり「世界」でもあります。ここに自己認識即世界認識のための基本原理としての「供犠」があるのです。

 神道的なあり方ではその供犠が言霊認識をはじめとしてすべてが鏡としての場の創造ということをコンセプト化したのに対して、西洋的なあり方では、むしろ「自我」というそれをもっとも阻害する要因を意識的に屹立させ、その果てに<我−汝><我−それ>というコンセプトを提示していくことによってそれを超えていこうとする超越的内在の方向へと向かおうとしているのではないかと考えられます。ちなみに仏教的あり方は内在的超越によってそれを達成しようとします。この「超越」と「内在」という言葉を使って神道を表現するとするならば、「超越即内在」というコンセプトになるでしょうか(^^)。

 己を虚しくしたときにはじめて訪れる己、己としての宇宙。いやはや、自我のキツイ身の上にとってはなかなかに苦しい課題です。

 

 

 

我と汝●間の無底的な深み


(93/04/10)

 

 まずは、ブーバーの考え方の僕なりの理解を。 

ブーバーの言う<我>と<汝>とは、東洋的自我と西洋的自我という比較対照よりも、さらに根源的なレベルから発されているように思えるんです。

 ええと、僕は別に西洋的自我と東洋的自我の比較対象ということを意図したわけではなかったんですが、読み直すとそうとられかねないところがなきにしもあらず、という感じもしました。

 西洋的な意味での自我表現というのが、日本語では成りたたないで、我と汝を踏み越えた人称表現を有しているということをいいたかったのです。もちろん、ブーバーの意図はそうした表面的な比較対象を越えているのは確かです。

 ブーバーは<我と汝>ということを、人間存在の根源的な事態として提示したわけですが、その核心は、「人間存在の原本的事実は、人間と共にある人間ということである」ということであって、その「と共に」ということを強調していたようです。で、その「と共に」ということをブーバーは「間」(das Zwischen/英語ではbetween)という概念を人間存在理解の根本理念として提示しています。

 つまり、我と汝の双方に開かれている相互主体的な場ということをいったわけです。ブーバーは人間の本体を<der Zwischenmensch 間人>という言葉で表現していますが面白いことに、日本語では「人間」という言葉が使われますし、「社会」ということにしても「世間」というように「間」という相互主体的な場を表す言葉が用いられています(^^)。ブーバーが日本語を知っていたかどうかはわかりませんが、こうした発想は、西洋的な自我表現では、画期的なコンセプトだったのではないでしょうか。

 この「相互主体性」、つまり一般的な用語としては「間主観性」「相互主観性」ということは今や現代哲学におけるポピュラーな用語にさえなっています。

 ちなみに、「我とそれ」ということについていえば、「我」からの一方的な対象化のことを意味していて、そこにはもはや「相互性」ということは成り立たなくなってしまいます。

 さて、「我と汝」という相互主体性を成立させるためには、「我から見る」という「我」の優位性による「それ化」を避けるべく、「我の優位性」を絶対的に押し返してくるような「向こうから」の出会いの力としての「永遠の汝」ということが非常に重要なものとなってきます。つまり、「我と汝」が本当に成立するためには、「永遠の汝」と向かい合うということが必要となってくるのです。このブーバーの「永遠の汝」にあたるものは、西田幾太郎では「間の無底的な深み」ということになりますが、西田の場合、ブーバーのように我に対する汝の方向に「永遠の汝」を見るのでもなくはたまた、「我」に絶対性、超越性を見るというのでもなく、まさに、我と汝の間、そこにおいて「我と汝「でありうる場としての「間」そのものという、我も汝もない絶対否定による平等性を提示しています(^^)。このことについて西田幾太郎はこう述べているようです。

 絶対の否定を通さなければ、汝は汝ではなくて単なる私である。かくして汝が汝でなくなると共に、私は私でなくなるのである。 

 また、こうもいいます。

 私と汝とは絶対的に他なるものである。私と汝とを包摂する如何なる一般者もない。しかし、私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝の底に私がある。絶対に他なるが故に、結びつくのである。

 ブーバーも「我と汝」を著してから25年後の著作「人間の問題」では、「間」を西田幾太郎のように否定性をはさんだダイナミックなかかわりあいと見るようになっているそうですが。 

日本語自体が、自と他を融合させていく働きを内蔵しているとは思えないです。要するに、「意志疎通の道具」としての使われ方次第ではないのでしょうか?

 むしろ、日本語というのは「自と他を融合」というよりも、「自と他」がそこから出てくる「場」を表現する傾向性を有しているといえるのかも。そういう意味で、「自我を屹立させない」ということを言いたかったわけです。西洋的な人称表現では、「私」が「あなた」である言葉と同じであるなどということはまずもって考えられないと思うのです。

 ですから、ブーバーの発想は、「「自我」の発生以前に遡って考察されているように思える」のは確かですが、あくまでも「我」対する「汝」とういうことが基点になっているように思われます。そういう意味で、西田幾太郎や禅にみられるようなラディカルな否定性に欠けているのではないかな、と思います。

 「声の秘密」にしても、この「我と汝」というテーマでの関連でいうと、「我の絶対的否定」によってしか「自己ならざる自己」としての「声」が表出できないということを言いたかったわけなのです。これは、「四大霊の解放」というテーマとも関連してくるような、言ってみれば「声(言霊)の解放」ということであって、これに関連しているものを挙げるとすれば禅における言葉ということになると僕は考えています。

 これについては、また後日改めてまとめてみたいと思っています。ちなみに、先日岩波の同時代ライブラリーの新刊の

●上田閑照「禅仏教/根源的人間」

というのがガイドになると思いますので、気が向いたら手にとってみてください。 


 ■「西田幾多郎」のトップに戻る

 ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る