夢窓疎石「夢中問答」ノート

(1998.4.15-1998.5.16)


夢窓疎石「夢中問答」

「無縁の慈悲」と無為

内魔と外魔

仏界をも愛せず、魔界をも怖れず

妄想

万事と工夫

 

 

 

夢窓疎石「夢中問答」


(1998.5.3)

 

■西村恵信「夢中問答/禅門修行の要領」

 (NHKライブラリー/1998.4.20)

 「夢中問答」は、夢窓疎石(1275-1351)が、室町幕府を開いた足利尊氏の弟の直義(ただよし)から出される禅についての問いに答えた法語93段を集めたものです。本書は、そのうち13の問答を選び紹介、解説してあります。

夢窓疎石については、これまで名前だけで、どういう方か、ほとんど知りませんでしたので、興味を引かれてはいたのですが、特に適切なテキストが見つかりませんでした。今回、「夢中問答」という格好のものが見つかりましたので、読んでみたところ、とても素晴らしい内容に驚きました。

 禅の問答というと、内容は素晴らしいとしても、公案だとか、わかったようなそうでないようなものが多いわけですが、この「夢中問答」は、きわめて具体的で、「問答」とあるように、テーマに添った内容がこれ以上は望めないのではないかというほどしっかりと盛り込まれています。

 ぼくがこれまで読んだ仏教関係のものでいえば、最高の内容の部類に入るのではないかと思います。必要なことが難解晦渋な表現を避けながら実質的にかつ簡要にしかもきめ細かく書かれていて、しかも文章が生きて迫ってくる。

 比べるのもなんですが、読み進めながら、これはまるでシュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」の禅バージョンではないか、ということさえ思わせるものでした。こうしたものが、室町時代の最初の頃に出版されていたというのは、驚くべきことではないかと思います。しかも、この「夢中問答」は、夢窓疎石がまだ生きているうちに、しかも仮名交じり文で記されていたということです。

本書には次のテーマでの13の問答を中心にしたものが紹介されているのですが、これは93の問答すべてを読んでみることにしたいと思っているところです。

・月の衆水に影を映すがごとし

・仏道に内魔と外魔とあり

・仏界をも愛せず 魔界をも怖れず

・禅門に学解機智をきらふこと

・莫妄想の一句を通過せば

・仏に根本智と後得智とあり

・無上菩提を信ずる心もて

・得失是非一時に放却せよ

・仏道修行に效なしとて

・万事と工夫との別あるべからず

・本文の田地に到る道

・かならず教外別伝を信ずべし

・この問答を記し置くこと

 

 

 

「無縁の慈悲」と無為


(1998.5.6)

 

慈悲には三種類があります。第一は衆生縁の慈悲、第二は法縁の慈悲、そして第三が無縁の慈悲です。「衆生縁の慈悲」というのは、現実に生死の岸頭で悩み苦しんでいるものがあるのだという見地に立ち、何とかして彼らを救ってその苦しみの世界から解放させたいと願う心であります。これは小乗仏教の菩薩の持つ慈悲であります。(略)

 次に「法縁の慈悲」というのは、もろもろの縁によって生起しているこの世界の存在は、感情を持つ動物も感情を持たない木石のようなものも、すべては「幻化」すなわち幻がさも実有のようになせるわざに過ぎないまぼろしのようなものだとさとって、その見地に立って慈悲を起こし、すべてはまぼろしのようなもので実有ではないという教えを説き、もともと縁によってまぼろしのように存在している衆生を救おうとするものです。これこそが大乗仏教の菩薩の慈悲だというのであります。(略)

 ところで「無縁の慈悲」というのは、仏道修行の結果、さとりに到ることによってもともと身に具わっていた性徳、生まれつきそのままの人間性が自然に顕われ出て、わざわざ他を救おうという気持ちを起こさなくても自然に一切のものを済度してしまうもので、あたかも月が無心にその影を水に映すようなものであります。(略)

 この立場から見ると衆生縁や法縁の慈悲に関わる人たちは、かれらの考える慈悲に遮られて、かえって無縁の慈悲を起こすことができないでいるように思われます。小さな慈悲を持つことが、逆に大慈悲の妨げになるといわれるのはそういう意味です。百丈禅師が「小さな功徳や小さな利得を貪ってはならぬ」と誡められたのもこのことでありましょう。

(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P14-16)

 ぼくなどは、「慈悲」とかいうこととはほど遠いタイプなので、こうした「慈悲」について云々することは憚られたりするのですが、ぼくがなぜ、いわゆる「宗教」や「教育」などに対して、はなはだ身勝手ながら、どうしてもあまりいい感情を持てないでいるのは、ぼくの接してきた「宗教」や「教育」に関わっていた人たちが、「小さな功徳や小さな利得を貪って」いるように見えたからなのかもしれません。

 ぼくは小さな頃、病気で死にかけた体験があるのですが、そのとき、ある新興宗教の方に、信心をしなければ死ぬと脅されたりしました。子供心にも、そんな馬鹿なことはない、と腹が立ち、ある意味ではその反面教師によって直ったのかもしれないとも思います^^;。学校でも、成績をあげて良い学校に入って、いい会社に就職して・・・ということにつらなった「利得」のための勉強を促す在り方に対して、そんな馬鹿なことはない、と思って、学校での成績のための勉強を怠り勝手に自分で興味のあることを勉強するようにもなりました。(これは、処世術的には確かに失敗だったかもしれませんけど^^;)

 こういう話は、「慈悲」とは関係のない馬鹿げた話なのですが、「救ってやる」とか「教育してやる」とかいう態度は、ともすると、真の救いや真の教育の逆のことをしていることになるのではないか。そんなことを思ったものですから、あえてコメントしてみることにしました。

 昨今、ボランティアというのがすっかり有名になりましたが、今や学校の内申書にポイント制で組み込まれたりするほどに「ボランティア」ということさえ、「小さな功徳や小さな利得を貪」るための手段になりかけています。これでは、ボランティアに関わる人たちは、かえってほんとうのボランティアから遠ざかってしまうことにもなりかねません。

 世の中すべからくこうした転倒に支配されているものだから、老子の言葉などの重みが身に染みて感じられるわけです。なぜ老子の言葉が逆説的になっているように見えるのか、ということです。

 書き始めたときには、老子がでてくるとは思っていなかったのですが、そういえば、ぼくがいちばん最初に自分のお金を出して買った思想関係の本で、何十回も繰り返し読んでいて、今も手元にあるのが、老子です。その中から、「無縁の慈悲」にも通ずるのではないかとも思われる第二章の訳を(「老子」小川環樹訳/昭和48年6月)。

 天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪(みにく)さが出てくる。善を善として認めること、そこから不善が出てくるのだ。まことに「有と無はたがいに生まれ、難しさと易しさはたがいに補いあい、長と短は明らかにしあい、高いもの下いものはたがいに限定しあい、音と声とはたがいに調和を保ち、前と後ろはたがいに順序をもつ」のである。それゆえに、聖人は行動しないことにたより、ことばのない教えをつづける。万物はかれによってはたらかされても、いとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについての敬意を受けようとはしない。自分のしたことに敬意を受けようとしないからこそ、かれは(到達したところから)追い払われないのである。(P8)

 

 

 

内魔と外魔


(1998.5.7)

 

仏道にとって障害となるものを一般に魔業と呼んでおります。[…]魔に二種類あるとされています。つまり、内魔と外魔の二つです。魔王や魔民(魔王の家来)たちが外よりやってきて修行者を悩ませるのを外魔と申すのです。[…]

この魔王は迷いの世界のすべての人や生物を自分の支配下と心得ていますので、人が仏道(さとりの世界)に入ろうとするのを邪魔してくれるのです。[…]魔は飛行が自由にできますし、身体から光明を放ち、過去や未来のことがよく分かり、その上、仏や菩薩の姿となって現われてきて、弁舌さわやかに仏の教えを説いたりするのです。[…]

このような外魔がやってきて悩ませることがなくても、もし修行者の心の中に煩悩が生じ、悪見に執われ、また高慢を起こし、坐禅ばかりしたり、さとりの智慧を誇ったりすること、あるいは小乗の修行者のように自分ひとり苦しみを脱出しようとしたり、大乗の修行者のように、すぐに迷える衆生を憐れんではこれを救いたいと思ってしまう心が起こるなど、すべて究極的な悟りを得るための障害となるものですから、これを内魔と名づけるのです。[…]

あるいは、ごく当たり前に道を求める心が起こり、しばらくの時間も惜しんで修行をするものの、なかなかさとりが得られないので悲しく思い、日夜涙を流すことがあるのも、やはり魔障であります。[…]あるいはまた善知識を尊敬するあまり、この人の糞尿を食してもよいとさえ思うのも魔障ならば、逆に善知識の日常行為に少しでも欠点が見えると、せっかくその人が持っている尊い正法まで捨てて彼のもとから離れてゆくのも魔障です。

貪りや瞋りというような煩悩が起こるのが魔障ならば、そういう煩悩が起こるのを怖れ、また嘆き悲しむのも魔障であります。

(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P33-35)

 これは仏道修行ということなので特別なことかもしれませんが、日常生活を送るわれわれの心構えとしても、外的な障害にも内的な障害にも、できるだけとらわれないようなあり方というのは重要だと思います。

 まず、外魔を、逆境と順境ということでとらえてみてもいいかもしれません。人は逆境に置かれると挫けて、やけのやんぱちになったりしますし、反対に、順境に置かれると、今度は怠けたり高慢になったりして、反省を忘れてしまいがちになります。どちらにしても、自らの由としての自由をなくしてしまうことになります。

 逆境で自由を失うというのはわかりやすいのですが、順境でも自由を失ってしまうということにはよくよく心する必要があります。小人閑居して不善をなす、ともいいます。忙しいときには、自分のしなければならないことが外から次へと押し寄せてきますから、自分で主体的に考えたり行動したりする余地が少ないのですが、余裕ができると、自分で主体的にならない限り、そのせっかくの余裕の使い道は安易な方向に流れていくわけです。ぼく自身の体験からいっても、むしろ時間のないときにこそ、工夫していろんなことをする余裕をつくりだそうとしますが、時間があったりすると、そのせっかくの余裕をつまらないことに食いつぶしてしまうことが多いように思います。

 今度は、内魔ですが、これは外魔より始末が悪いといえます。というのも、内魔は、外的な基準がなく、自分の主体的な反省作用とでもいえるものだけがガイドになるからです。

 いわゆる「精神世界」や「宗教」やらにふれておかしくなる人も、この内魔にあたるといえるように思います。これまで自分を見据えたことも、そうする努力を地道にすることもなしに、霊的な現象などにみまわれたり、そこまでいかなくても、いろいろな知識を得て自分が偉くなった気持ちになったりすると、この「内魔」の困難に遭遇することになります。始末に悪いというのは、それを「困難」だと認識できないことが多く、自分は超能力を得て悟りに近づいているのだとか、自分はこれで悟ったのだから、人に教えを説かなければならない、とかいうように思いこんでしまい、自分は今もっとも困難なところにいるということがわからないどころか、その逆だと思いこんでいるからです。

 そこには、「悟り」をめぐる執着があるのだといえます。だから、悟ろう悟ろうとばかり思いこんでしまって、導師に何がなんでも従って悟りを得ようとして、「法」ではなく、導師そのものを目的にしてしまったり、悟りには、煩悩などが邪魔になると思いこんで、自分が今こうして生きていることそのものを等閑にしてしまったりもします。

 また、自分が少しなにかわかった気になって、これで自分はもう悟ったのだというふうに思いこんで、自分は迷える人を教える側なのだというふうになってしまうと、自分を見つめることのできない善魔になったり、常に自分を先生の側にしかおけないような心の不具者になったりします。心の不具者で、成長できないでいるのに、自分は高みにいる気になって、悩み相談にくる方を食らっているのだということに気づけないのです。

 こうしてみてくると、内魔には、マゾ的内魔とサド的内魔があるようにも思います^^;。マゾ的内魔は、悟ろう悟ろうとして自分の生を虐待するタイプ。サド的内魔は、人を教え導こうとばかり考えて、自分を置き去りにするタイプ。現われ方は違っても、どちらも同じ内魔の裏表だといえるのですけど。

 親鸞が、自分は弟子などひとりも持っていない、と言ったり、死んだら鴨川に投げ捨てて魚の餌にしてくれ、とか言ったりしたのも、こうしたことから考えていくと、至極当然のことだったわけです。

 最近よく思うのですが、人はまずお金に執着を示すといいますが、だんだん歳をとってきてお金にあまり困らなくなると、今度は「名前(名声、名誉)」をほしがるようになります。まあ、この「名前」を欲しがる浅ましさは、自分の銅像をつくったり、記念館をつくったり、自分の名前が刻まれている記念碑を建てたり、と飽くことなく続くようです。よくよく考えてみれば、少々そんな名前を残したところで、死んで1000年も経てば残る名前などほとんどありませんし、それこそ5000年、10000年も経てば、藻屑なんですけどね^^;。

 そういうのではない、「自由」をほしいものです。そしてそれを得るために、日々の「生」を大切にしたいと思います。

 

 

 

仏界をも愛せず、魔界をも怖れず


(1998.5.8)

 

魔境に入ることを怖れて、これに堕ちないような方法を求めるのもまた魔境です。(略)

仏界といってもそれに愛著すれば魔界であり、魔界といってもそれを忘ずればそのままに仏界であります。真実の修行者は仏界に愛著しないし、魔界も怖れることはありません。もしこのように、心の準備をして、さとったといって安心せず、もはや悟りは得られないとあきらめてしまったりさえしなければ、どんな魔障も自然に消えてなくなります。

(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P50)

 君子危うきに近寄らず、というのがありますが、これは、たぶん、その「危うさ」をきちんと知っているからであって、最初から「それは危うい」というふうに決めつけているのだとしたら、それは君子とはいいがたいというふうに思っています。

 「子どもたちが、そんな危ないところに行かないように」「そんなみだらなものを目にしないように」とかいうふうにして、「魔境」をおそれるあまりに、「魔境」に近づかせないようにして、「魔境」がいったい何なのかわからないままにしておくのは、もっとも「魔境」なのではないでしょうか。少なくとも、そういうふうな指導をする以上、自分が「魔境」の何たるかを知っておかなければ、それは単なる欺瞞です。

 光ばかりを教えて闇はないのだ、というふうに闇そのものの体験がないとしたら、その人生はどんなに不毛なことでしょうか。お仕着せの道徳を絵に描いたような善人の顔をした地獄がそこにはひろがっているばかりなのではないでしょうか。以前、山上たつ彦の初期の漫画に、み〜んな同じ菩薩顔をした菩薩たちだけのいる世界の不気味さを描いたものがありましたが、そういう感じです^^;。

 

 

 

妄想


(1998.5.9)

 

浄土を穢土は遠く隔たっており、したがって迷いと悟り、凡夫と聖者とは同じではないと思っているのは妄想であります。逆に、聖者と凡人には隔てがなく、浄土と穢土の別もないと思うのもまた妄想であります。仏の教えに、大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教、禅宗・教宗といったような区別があると思うのも妄想というもの。逆に仏教の諸派の教えはすべて一味平等であって勝劣はないと思うのも妄想でありましょう。日常の行住坐臥や見聞覚知がそのまま仏法だ、と思うのが妄想なら、仏法はすべての所作・所為とは別のところにあると考えるのもまた妄想。世界中のすべてのものは実在している、と思うのは迷える凡夫の妄想であり、世界中のすべてを無常なものと見るのもまた小乗的な妄想であります。すべての存在を永遠不滅としたり、あるいは断滅してしまうものだとするようなのは外道の妄想です。そうかといって、すべては幻の如く実態のないものと考えたり、また有るとか無いとかいうことの両方を離れた非有非空の中道だとさとるのもまた菩薩の妄想というものであります。真の仏法は教の外にあるということを教える禅宗のことを知らず、教えだけを最後のものとして頼るのは教宗の人の妄想。「教外別伝」とばかり唱えて、それが、教宗よりもすぐれたものだと自負するのは禅者の妄想であります。

(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P83-84)

 何かを分かるということ。

 そのことそのものが妄想であるということを知ること。

 分別智を去ると言うのは簡単ですが、ここに述べられているように、自分が立脚しようとするその地点で分かるということそのものが妄想なのですから、ではいったいどうすればいいのか、ということになります。

 唐の無業国師は、そうした類のどんな質問に対しても、「妄想するなかれ」とだけ答えたということですが、実際、妄想しないためにはこうするのがいいのだ、などというふうに足場を作ってしまうことそのものが妄想になりますから、まさに「妄想するなかれ」としかいえないわけです。

 この引用では、夢窓疎石は、仏教のあらゆる教派に対して、それらが妄想であるというふうに言っています。自分の依る教説そのものの妄想性を常に自覚し続けること。あれもこれも妄想だけど、これは真実の教えである・・・というふうに分別してしまうことそのものこそが妄想なのだということを自覚しつづける以外の道はないように思います。

 何かを選ぶことというのは、何かを選ばないことでもあります。

 白を選び黒を排除すること。黒を選び白を排除すること。白も黒も選ぶこと。白も黒も選ばないこと。白も黒も選ぶという選び方を去ること。白も黒も選ばないという選び方を去ること。

 ・・・そのように、なにかであるこという分別によって逃れ去ってしまうことばにならない真実を体得していくということ。自分を常にそうしたダイナミズムの渦中に置き続けること。「妄想するなかれ」とみずからの妄想を問い続けることのなかでしか体得できないものがあるとしかいえないのかもしれません。

 よく使われる例に、師が月を指さしているのに、その師の指をいくらみても月を見たことにはならない、自分で直接月を見なければならないというのがありますが、実際、あらゆる教説、分別というのは、月を見ないで指のほうばかり見ているということでもあるわけです。漫才のネタではよくそういうのがありますが、実際にそういうことばかりしているというのが、妄想の妄想たる所以というか・・・。

 いちごは美味しいよ、といわれて、それはどのように美味しいのかをいくら聞いてもそのいちごを味わうことによってしか、いちごの味はわかりません。しかし、じぶんだけいちごの味をわかったわかたっと思いこみ続けるのもまた妄想になります。実際の月をみること、見ようとすることの重要性と同時に、やはり、月とはどういう存在なのかについて、あらゆる角度から検討してみるということも必要なことなわけです。

 妄想をなくすということについて書くということの困難さはこうして書いていながら煩悶せざるをえないところでもありますが、やはり、自分に「妄想するなかれ」と言い聞かせ続けながら、自分のそのつどの妄想を自在にしていくことしかないのだと思います。もっとも危ないのは、自分は妄想していないと思いこむことなのですから。

 

 

 

万事と工夫


(1998.5.10)

 

 問い ある人は日常生活をしながら本文の工夫をするとい、またある人は、本文の工夫の中に日常生活の諸事万端を行なっていくといわれますが、両者のやり方はいったいどこが違うのでしょうか。

 答え 「工夫」というのは中国の俗語であって、日本語の「いとま」ということばに当たるでしょう。つまり人間のなす一切の仕事に通じることばであります。田畑を耕すことは農民の工夫であり、材木を組んで家を建てることは大工の工夫というものです。このような世俗の用語を借りて、修行者が仏道を行じることも工夫と呼ぶようにしたのです。本来、自己に具わっているものを確かめるために「心を用いる」人にとっては、それが日常の仕事の中で行じられるか、工夫の中で行じられるかというように区別する必要はありません。(略)

古人は「山河大地・森羅万象は、すべて自己にほかならない」と申しておられます。もしその深い意味が分かるならば、工夫と別のところに万事があるということにはならないでありましょう。

工夫の中で着物を着、食を摂り、工夫の中で行住座臥の振舞いをし、工夫の中で見聞覚知のはたらきをし、工夫の中で喜怒哀楽の感情を起こすでありましょう。そういうことならば、「工夫の中に万事をなす人」ということができます。

これこそ「無工夫の工夫」(しない工夫)、「無用心の用心」(しない用心)というものにほかなりません。このように用心する人は、それを意識するもしないもそのままで工夫になっております。(略)

しかしながら、たとえそういう境地を得たとしても、まだそれは修行の途上の話であり、完全に始祖の教えられた端的に契当した人とはとてもいえないのであります。

(西村恵信「夢中問答(夢窓疎石)」NHKライブラリー/P170-172)

 「工夫の中に万事をなす」といえば、自分の行なうあらゆることに意識的でいるようにする行、とでもいえるグルジェフのワークのようですね。

 たしかに、自分の気になったことだけにはこだわるけれど、あとはどうでもいいというのでは、その「工夫」というのは、自分を根本的に変容させるに足るものにはなりません。自分の仕事についてのこだわりというのであれば、職業意識、プロ意識としてもそれはそれで成立するわけですが。

 この「工夫」というのは、「自己教育」ということでもとらえることができます。自分で自分の可能性を引き出すべく試みるということを、限定したものとしてとらえるか、限りない可能性としてとらえるかです。これは、認識の限界から出発するか、認識を広げるために、みずからを高めていこうという姿勢でいるかの違いでもあります。

 それ以前のものとしては、自分は教育する人であって、教育される人ではない、というような偏った姿勢もあります。それは、人には「工夫」を求めるにも関わらず、自分は「工夫」の必要性を認めないというような姿勢です。人の世話はするけど、自分の世話はできないというのもそうです。

 さらにいえば、「工夫」を自分の職業においてとらえることさえしない、というさらに偏ったというか、偏るまでにさえ到らない姿勢もあります^^;。本来それはドイツ語でBerufが、職業という意味でもあり、使命、天命という意味でもあるというように、生活の糧でもあると同時に自分の生まれてきた役割に関わるものです。で、そのBerufにおいても、自分の役割を果たそうとしないという姿勢です。

 また、「山河大地・森羅万象は、すべて自己にほかならない」というのは、まるでノヴァーリスのようでもありますが(今後のノヴァーリス・ノート参照)そうとらえるとすれば、この部分だけは「工夫」するけど、これは自分とは関係ないから「工夫」する必要はない、とかいうことはできなくなります。

 もちろん、逆に、自分とは直接関係ない人のことは積極的に「工夫」するけど、自分に関係したことだと、どうしようもなくなる、というのは、「工夫の中に万事をなす」ということとはほど遠い姿勢です。

 しかしさらに重要なのは、それはまだ「修行の途上の話」だというのですからほんとうにこうしたことは途方もなく難しいことだといえますね。

 ぼくなども、特定のことだけに「工夫」するのでせいいっぱいの状態ですから、何かが少しわかったとかできたとかいうことで、過信するなどということは許されないというか、そうなってしまっては、単なる馬鹿ですから^^;、少しでも「工夫」の視点を「万事」のほうに近づけられるようにしたいものだと思っています・・・がなかなかですね^^;。


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