「物語を生きる」ノート1
もの
2001.12.31
「物語」という「もの」は、いったいどのような意味をもっているのだ
ろう。これに対しては、折口信夫の「ものは霊(モノ)であり、神に似て
階級の低い、庶物の聖霊を指した語である」によってえ、「もののけ」の
「もの」と考えられるようである。このような考えを背景に、梅原猛は
「『ものがたり』というのは『もの』が『語る』話なのである」と述べて
いる。
「もの」が霊である、というのは面白い発想である。現代人は「もの」
と言えば「物質」と思うのではないだろうか。と言っても現代人も、相当
広い範囲で、この「もの」という言葉を使っている。「ものごころ」、
「ものになる」などと言うし、「そんなものじゃない」と怒るときもある。
あるいは、単に「知りたい」と言わずに「知りたいものだ」などと、「も
の」をつけて表現する。これに、古語の用例も加えると、実にものすごい
範囲をカバーして、「もの」という語が存在していることがわかる。かつ
て哲学者の市川浩が、「み」という語を丹念に調べ、それが「身体」を表
わすのみならず、それを超えて、心や魂まで含む、実に広い範囲に及ぶ用
語であることを明らかにした。「もの」は「み」に匹敵する言葉と言える
だろう。
「もの」は従って、物質のみならず人間の心、それを超えて霊というと
ころまで及ぶ、と考えられる。その上、梅原猛は、物語というのは「『も
の』が『もの』について語る」と述べているが、これも「誰かの『もの』
について語る」という考えも成り立つわけで、拡大解釈をしていくと、
「物語」というのは、実に多くのことを含んでいる。
(河合隼雄『物語を生きる』小学館/2002.1.1発行/P18-19)
「もの」が霊である、というのは、まさにそのことばどおりで、
「もの」を物質だととらえるときにも、
物質は霊的なもののひとつの特殊な表現であるとしてとらえなければ、
おそらくは決して物質とは何ががわからなくなってくるのではないだろうか。
それはまさに「身」についてもいえることで、
単に身体を物質としての肉体としてのみとらえてしまうときに、
いかにそれらが貧しいとらえ方しかできないか、ということがわかる。
(市川浩の『身体論集成』/中村雄二郎編・岩波現代文庫が
先日ちょうど編集・刊行されたところなので、興味のある方は参照されたし)
シュタイナー的な観点からいっても、身体というのは、
肉体、エーテル体、アストラル体からなっていて、
そのなかで自我が働いているものとしてとらえられている。
「もののけ」にしても、
「もの」を即物的な意味での物質的な側面からとらえるのではなく、
そのさまざまなあらわれのなかでとらえていくことで、
それが「もの」の「化」としてとらえることもできるのかもしれない。
実際、日本では、なぜか、さまざまなものを供養することが行なわれていて、
それはいわゆる生命のあるものだけにかぎらず、
人形や針などのようなものをも供養されているように、
「もの」つまり「霊」は、あらゆるものに宿っている
と思われているところがある。
大物主という神も存在していたり、
山や岩などが御神体になっていたりするように、
「物」「もの」というのは、
むしろ神々の顕現したひとつの姿であるように
古代においてはとらえられていたのではないだろうか。
それはおそらくシュタイナーが、
第一ヒエラルキアが物質に働きかけているということを
示唆していることに通じていることのように思われたりもする。
つまり、大地は神々の身体のひとつの現われでもあり、
もちろんのこと、私たちの身体そのものも、また
そのひとつであるとしてとらえることもできる。
その「もの」が語る。
「もの」が即物的になってしまったとき、
やはり物語もそれに応じて貧困にならざるをえないだろうが、
「もの」の働きを多次元的にとらえていくことによって、
その「物語」もまたそれなりの広がりを得ることができるだろうし、
その「もの」が私たちに働きかける仕方も
それに応じた広がりを見せてくれるのではないだろうか。
しかし、「そういうものだ」というとき、
ひとは「もの」に屈服させられている。
というより、むしろ「もの」を閉じ込め貶めている。
そうではなくて、「もの」のはたらきを
さまざまなところで真にとらえようとし、
「もの」が「語る」のをききとることで、
それらを解放していくことができるのではないだろうか。
それは、「もの」としてこの地上に現われている
私たちそのものの解放であるということもできるだろう。
|