風のメモワール96

栽培植物と農耕の起源


2008.11.12

中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書/1966)を
はじめて読んだのは大学1年のとき、
人類学関連の授業のテキストとしてだったと記憶している。

久々読み直してみると、
ところどころ鉛筆で線が引かれている。
ぼくの名前の「蔵書」印が押されているので、
ぼくがその線を引いたことは確かだろう。
そう的外れなところに引かれているわけでもないので、
いいかげんに読んだ感じはないが、記憶からはすとんと消えている。
覚えているのは、先生がこの本を必読書として大推薦していたことくらいだ。

読んだことを覚えていないのは、
なぜこれがそんなに面白いのかがわからなかったからなのだろう。
たしかに、その頃ぼくの興味があったのは、
ポストモダン的な思想・哲学だったから、
栽培植物がどうだとかいわれてもピンとこなかったはずである。

こうして30年以上経って読み直してみると、たしかに名著である。
「根栽農耕文化(サトウキビ・タローイモ・ヤムイモ・バナナ)」、
(「照葉樹林文化(クズ・チャ・ワラビ・サトイモ・ヤマノイモ・イネ)」)、
「サバンナ農耕文化(ササゲ・シコクビエ・ヒョウタン・ゴマ)」、
「地中海農耕文化(オームギ・エンドウ・ビート・コムギ)」、
「新大陸農耕文化(ジャガイモ・菜豆・カボチャ・トーモロコシ)」
という農耕文化別で見ながら、発祥地、伝播ルートなどを見ていくのは、
たいへん興味深い視点だし、なにより今自分の食べているもののことが
より深く理解できるというのがうれしい。

本書を読んで、あらためてなるほどと思ったことのひとつが、
その地域にあるすべての利用できる植物が食用とされるわけでも、
またそれが栽培植物として発展するわけでもないということである。
そこにちゃんと生えていても、それを食物としてとらえるかどうかは
「文化」の問題であって、「文化」がないと「栽培植物」とはならず、
そこに「文化」があってはじめて栽培植物として展開する。

また、たとえばこんな指摘もあってたいへん参考になる。

  ヒンドゥー文化には、がんらい酒類はなかった。そういい切ってよいようだ

  インドアリアンの神話時代の飲みもの、ソーマは植物の汁で、酒ではなさそ
  うだ。そしてげんざいでも、インド土着のヤシ酒をのぞいては、ヒンドゥー
  教徒に酒はない。インドでもっとも食料として大きい、コメの酒がない。も
  し、“どの民族も主食の穀類から作ったそれぞれの酒がある”と思っている
  人があったら、それはインドですぐだめになる。インドでコメの酒がでてく
  るのはヒマラヤの中腹や、アッサムの山地ではいっていったときだけだ。
  (P.68-69)

さて、こうしたものを参考に、
人間がなにを食べてきたかということを
その地域の気候や特性や文化といったことから考えてみるのは大変面白く、
たとえば、シュタイナーはジャガイモのことをあまりよく言わなかったり、
トマトを利己的な野菜だといったりもするが、
それぞれの栽培植物の発症の地のことや
その伝播によって食物として位置づけられることになることで
どのような影響をその土地の人間が受けるようになるのかということなど
今の自分の食生活を見直す上でもたいへん重要なことであるように思う。
昨今、さまざまな「食」の安全性が叫ばれるなか
「地産地消」ということがあらためて注目を集めているが、
なぜ「地産地消」なのかということを考え直してみる必要もあるだろう。

さてさて、この中尾佐助さんの『栽培植物と農耕の起源』が
たいへん面白かったものだから、その続編的な位置づけの
『料理の起源』(NHKブックス173/1972年)を
引き続き読んでみようと思っている。
栽培植物となることができるということは、
その土地、土地の「料理」の方法としっかりとリンクしているわけである。
それも大まかであれ、しっかり理解しておきたい。

しかし、若い頃、こうしたテーマにそんなには関心を持てなかったのは、
「知的」ということをどこかでとらえそこなっていたこともあるのだろう。
とはいえ、やはりぼくにとってはまず「考える」ということが重要で、
少しでも考えることができるようになるための長いプロセスがあってはじめて、
今、こうして長い迂回路をとって、また別の視点をとりながら、
ようやく深く関心を持てるようになったということなのだろうと思う。
それは、『自由の哲学』でも示唆されているように、
思考と自然認識の関係についても、そうしたプロセスがあってはじめて、
少しなりともアプローチすることができるようになるわけで、
はなはだ時間のかかるプロセスではあるけれども、
必要不可欠なプロセスであったのだろうと思っている。
やはり、いろんなことが、多面的な視点を得ることで
面白くなるのは大変楽しいことなのだ。