風のメモワール95

教養


2008.11.7

松岡正剛・千夜千冊1266夜(2008.11.5)
竹田篤司『明治人の教養』(文春新書)の冒頭にこうある。

  教養とは何か。
  リベラル・アーツとは何か。
  いまささっぱり看過されている教養が、
  かつては日本の哲学と芸術とをつくっていた。
  そんなセピア色のことを、回顧したいのではない。
  そこをこそ、いま奪取するべきなのだ。

今や「教養」というのは、おそらく死語なのだろう。
大学からも「教養課程」と「専門課程」の区分がなくなりつつある。
もちろん、『明治人の教養』にもあるように、
「現代では、大学も大学教授も、概して教養とは無縁」であり、
「学問が極端なまでに分化して、学者が単なるスペシャリストに化し」ている。
「『専門家』と「教養人」は、相容れない概念」なのである。

リベラル・アーツ (liberal arts)のもとの意味は、「人を自由にする学問」。
その起源は、古代ギリシア。
プラトンの『国家』では、哲学を学ぶまえに必要な学習として、
ムーシケー(文芸)と幾何学が必要とされた。
(ちなみに、日本語の「藝術」というのは、
西周がそのリベラル・アーツの訳語としてつくった言葉である)
学ぶことで、奴隷でない自由人としての教養が身につくとされた。
それは、自由七科(Seven Liberal Arts)ともいわれ、
これがいわば「教養課程」なのだが、それが死語化しつつあるわけである。

大学において死語化するのはもう止められないだろうし、
それ以前の教育において死語化するのも同様なのだろう。
逆に、「明治人の教養」の時代には「知的大衆」は存在しえなかっただろうが、
今や多くが「高学歴」で、薄まった形での「知的大衆」を形成している。
そのかわりに、まとまった高みとして存在した「教養人」が失われてきている。

だから、松岡正剛のような人物が、「千夜千冊」などという試みを
ネット上で無料公開しているような現象が不可欠になっているのだろうし、
かつては大衆化、白痴化に貢献していた感もあるコピーライターが、
いまや「ほぼ日」で、吉本隆明の講演をプロデュースしたりもする。
これからは、これまでとは別の形での「リベラル・アーツ」が
「奪取」されていかなければならないのだろう。
そういえば、既に亡くなったが現代音楽で世界的に著名になった
武満徹も、ほとんど学校教育とは無縁で、ほとんどが自己教育だった、
というのも、教育機関そのものの機能不全を意味していると同時に、
新たな形での希望だともいえるように思える。

さて、『明治人の教養』の最終章で、
「現代における教養(教育)崩壊の『現象』と『病理』は、
以下の三つに象徴的に集約される」としているが、
ひとことでいえば、「思考の不全」ということになるようだ。
「思考」が生きて機能しないと、「自己教育」も成立しようがない。

 1.国語を符丁としてしか使えない(人格の解体)
 2.ケータイによって他者を締め出す(コミュニケーションと世界の喪失)
 3.○×式が痴呆をつくり続ける(思考の崩壊)

ぼくのような、教養とは無縁のような人間でさえも、
「人を自由にする学問」であるリベラル・アーツの「奪取」ということが
必要不可欠であるということは、痛感させられる。
痛感させられるというくらいなら、
「アホなままのおまえが先に少しでも教養を身につけたらどうだ」という
耳の痛い声がどこからか聞こえるのだが、
アホの自己教育はなかなか進まないのがつらいところ・・・。

最後に、『明治人の教養』から、少し。

   歴史的産物である「名人の教養」を、われわれ自身のものとする
  ためには、彼らから土台を受け継ぎ、その上に、現代という時代に
  ふさわしい家を建てることだ(彼らもそうした、それ以前、さらに、
  そのまた以前の「彼ら」も)。では、われわれは、どのように行な
  うのか。そもそも、今のわれわれに、そんなことが可能なのか。も
  しかして、土台自体がすでに損傷いちじるしく、修復不能に陥って
  いるとしたら……。わたしのペシミズムが、幸いにも的外れである
  ことを祈りたい。そして本書が、願わくば、単なる挽歌としてでな
  しに読まれることを。
   他は知らず、ひとりわたし自身について言えば。−−禁欲によっ
  て、つねに精神の飢餓感を保持し続けること。内なる秩序回復のた
  めには、それ以外に途はない。
  (P.191)

そう、「精神の飢餓感を保持し続けること」なのだ。
少なくともぼくにもその「精神の飢餓感」だけは欠けたことがない。
それだけを希望に、なんとか少しでも
哲学徒、いや神秘学徒の条件である「人を自由にする学問」、
リベラル・アーツを少しなりとも身につける道を歩むことにしたい。
(気づくのが数十年、遅かったが、
まあ、気づかないよりいいか、という情けない状態ではあるけれど)