風のメモワール93

大人のいない国のこれから


2008.10.31

鷲田清一と内田樹の
『大人のいない国/成熟社会の未熟なあなた』
(プレジデント社/2008.10.10.発行)が
ちょっと面白かったのでメモ。

  鷲田 今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。
  若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサ
  ンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、
  もうこの先ないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。
  (・・・)
  内田 子どもだけでも運転できるシステムを作ったところまではたいした
  ものだと思うんですけれど、さすがに子どもばかりが運転していると出来
  のいいシステムのいつかは破綻する。そのとき現場にいる人たちは、誰も
  補修してくれないなら自分でやるしかないということに気づく。状況的要
  請によって大人にならざるを得ないという人たちがたぶんこれから出てく
  ると思います。政治の世界でも、企業にも、学校教育の現場にもいると思
  いますよ。まだ声が小さいだけで……と、希望を語ったところで(笑)。
  (P.11,38)

ぼくもいいかげんな歳になっても、
自分を大人だとかはあまり思ってなくて、耳が痛いのだけれど、
そんな情けないヒトでも、さすがに、
おびただしいまでの「お子ちゃま」ばかりを見るにつけ、
このままでは立ち行かないだろうなと実感させられることが多い。

かつて、さもオトナのようにふるまってきていた人たちにしても、
その多くは、ある種、それをささえてくれるマザーがいて、
その面の未熟さを踏み台にして「父権」や「オトナ」を行使してきた、
というところがあるので、
今のような、「お子ちゃま」の「お子ちゃま」による
「お子ちゃま」のための世の中が、
いったいどうなっていくのか、
ある種の実験的な部分もあるように感じていたりする。

少なくとも、かつての「母性「や「父権」やらに
単純に帰ってゆくことはできないだろうし、
このまま「お子ちゃま」が許されていくということもないだろうから、
「お子ちゃま」は、これから成長を余儀なくされていくわけである。
その生き残りをかけて。

そのバトルが始まっているのが、
昨今のさまざまな事件でもあるし、
それは身の回りにもさまざまなかたちで
多かれ少なかれ起こっているのだろう。

この対談でも言及されているのだけれど、
自分をあらゆる意味で「消費者」としか位置づけられない人たちやら、
自分のいるシステムの外から発言して責任を云々するクレーマーやら
「大人はキタナイ」というすでに大人になっている若者やら、
そうした人たちのこれからというをしっかり見ていくと、
その変化というのがいちばんよく見えてくるように思っている。

さて、「お子ちゃま」の未来やいかに。