風のメモワール92

アニムスの暴走とアニマの耽溺


2008.10.29

泰葉の元夫である落語家の春風亭小朝への
はちゃめちゃな攻撃が見せてくれるのは
女性のアニムスがどのように暴走しがちであるか、という
現代のひとつのありようをわかりやすく象徴している事件であるように見える。

馬鹿馬鹿しい事件のようにも見えるし
基本的に当事者の問題なので
マスコミが喜ぶだけだということはいえるけれど、
こういう些細なことのなかに象徴的に
現代の重要テーマは現われてくると思うのであえて少し。

ユングのアニマ、アニムスについての示唆を理解する人はだれしも
こういう事件はきわめて典型的な
アニムスの暴走だと見えていると思うのだけれど、
おそらく現代においては、いわば集合無意識的にも、
多かれ少なかれ女性の多くに共通していることなのだろうという気がしている。
もちろん上野千鶴子的なありようも、アウトプットの仕方は違ってはいても、
基本的に同じ現象のようにぼくは理解している。

ユング研究家の林道義さんが現代日本における魂の危機意識から、
『父性の復権』『母性の復権』『家族の復権』といった著作を著わし
それへの批判に対する反批判などがかつて展開されもしたが、
おそらく林道義さんは自分なりに「進んだ」かたちでの
男性と女性、そして家族のありようを体現してきたことから
それなりの提言を行なったということは理解できる部分はあるものの、
それがどこか逆行めいてみえるところがあることは否定できないように見える。
つまり、まだ見えてこない新たなありかたへの視線が
欠けているように見えるのである。
たとえば、村上春樹の小説が世界各国で受容される要素のひとつに
その登場人物の家族形態というか男女の関係があるように
まだ見えないある種の個人的なかたちへの示唆がないということでもある。

だから、それよりも、こうした泰葉vs小朝のような事件をみていた方が
その悲しさなどを通じて何かが見えてくることも
またあるのではないかと思えたりもするわけである。

さて、女性のアニムスの暴走があるとすれば、
男性のアニマの暴走もまた現代にはあるわけで、
アニメキャラやフィギュアなどを愛好するいわゆるかつての「おたく」なども
そうしたなかに入るのだろうし、
最近世の中を賑わしている事件のなかにも
そうした暴走を多く見ることもできるように見える。

現代人は、かつてかなり強く作用していた普遍的無意識のようなものの影響を
脱しつつありながらも、つなぎ止められていた鎖は解かれたものの、
今度は自分でどうしていいかわからなくなっている状態なのだろう。
神経症や統合失調症は、ユング的にいえば、
無意識が意識と統合(個性化)できずに無意識が意識を襲ってしまう状態で、
それに近い状態が起こりやすくなっているということだと思う。
たとえば神経症や統合失調症にならないですんでも、
今度は、過去への逆行という方向に行ってしまう危険性も極めて高い。
(いわゆるナショナリズム的な動きもそのひとつだろうと思っている)

その意味では、泰葉vs小朝のような事件のほうが
一見ばかばかしくも見えるけれど、
そこからある種の意識化や個性化への道が開けているのかもしれない。
そんなふうに感じることが多かったりする。