風のメモワール91

「井戸」二つ/村上春樹と安藤元雄


2008.10.25

「井戸」について、唐突に二つの話題を並置してみたいと思う。

「井戸」というと
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を思い出す。
井戸の底に下りていくこと、壁抜け、そして水が湧く。

   気がついたとき、僕はやはり暗黒の底に座っていた。
  いつものように壁に背中をつけて。僕は井戸の底に戻っ
  てきたのだ。
   しかしそれはいつもと同じあの井戸の底ではなかった。
  そこには見覚えのない何か新しいものがある。僕は意識
  を集中して、状況を把握しようと努めた。何が違ってい
  るのだろう?でも僕の肉体の感覚の多くは麻痺したまま
  だったし、身体のまわりにあるいろんなものを、不完全
  にばらばらに感じることしかできなかった。自分は何か
  の手違いで誤った入れ物にいれられているような気がし
  た。それでも時間をかけて、僕はなんとか理解すること
  ができた。
   僕のまわりには水があった。
   それはもう涸れた井戸ではなかった。僕は水の中に腰
  をおろしているのだ。気持ちを落ちつけるために僕は何
  度か深呼吸をした。なんてことだろう、水が湧いている
  のだ。
  (・・・)
   僕は壁に頭をもたせかけ、自分に言い聞かせた。大丈
  夫、何も心配することはない。たぶんすべては終わった
  のだ。あとはここで身体を休め、それからもとの世界に、
  光溢れる地上の世界に戻っていけばいい……。しかしど
  うして突然ここに水が湧き出たのだろう?井戸は長いあ
  いだ涸れて乾いて死んでいた。そして今、井戸は唐突に
  回復し生命を取り戻した。それは僕があそこでやったこ
  とと関係しているのだろうか?たぶんそうだろう。水脈
  を塞いでいた栓のようなものが、何かの拍子にはずれて
  しまったのかもしれない。

先日、現代詩文庫(思潮社)の新刊(188)に
『続・安藤元雄詩集』がでていて、そこに
「詩人という井戸」と題した
「第七回『萩原朔太郎賞』受賞記念講演」が収められていた。
「井戸」である。

そのなかで、安藤元雄は
「詩人というものも井戸のようなものではないか」と問いかけている。
そして、井戸の中にしみだす地下水、
地面のずっと下の方に流れている目に見えない水脈が、
土の中を通過し、ろ過され、
「そういう液体が井戸の内壁から少しずつしみ出して井戸の底にた
まる」と。

しかし、井戸には欠点があって、
それは「動けないということ」だといいます。

  いっそおれという井戸をフランスに掘ってくれないかと
  願っても、それは無理であります。井戸はまず自分で自
  分を掘ることは出来ませんし、第二に好きな場所に自分
  を掘ってもらうことは出来ません。実は私なら私が井戸
  としてここにいるっているのは、これが私の宿命であり、
  私の実存であるわけです。そこから私は離れることは出
  来ません。これが井戸の最大の欠点であります。動けな
  い、動けないから動きません、動かない。しかし時間が
  たつとどうなるか。いずれ私は死ぬことになるでしょう。
  これは人間である以上仕方がありません。そのときは、
  つまり私という井戸が埋められてしまうわけですね。で
  もきっとそのとき、どこか私に近いところに、また別の
  井戸が掘られるに違いない。ひとつの井戸が埋まり、別
  な井戸が掘られます。そしてこの新しい井戸はもしかす
  ると、かつて私が響かせたのと同じ響きを、やはり井戸
  の底でぼわんと響かせるかもしれないんです。

安藤元雄の詩集は同じ現代詩文庫の79に
『安藤元雄詩集』があり
25年ほど前に買ったことだけを覚えていて
実際のところあまり目を通していなかったが、
今回の機会に読んでみると、たいへんにぼくのなかで響くものがあった。
ぼくはぼくの稚拙な井戸でしかないけれど
ぼくはその25年ほどのあいだに、
ぼくの井戸を掘ってきていたということなのだろう。
そして涸れていた井戸の底に何かの拍子に水が沸き始めた。

歳を経ることが、井戸を涸らすのではなく、
それなりに掘ってきた井戸に
少しずつ水が湧き出てくるような
そんなことであったらいいと思う。
しかしそのためにも、そのためにこそ、
井戸を掘りながら、
または涸れていた井戸を見つけてそこに下りていって、
(安藤元雄は自分で井戸は掘れないというが
そういう意味ではなく、まあ、気分だけでも掘った気になって)
そこで過ごすことによって
涸れた井戸に水を取り戻せればと切に思う。