風のメモワール90

バガボンドから


2008.10.19

数年前、途中まで読んでいた井上雄彦『バガボンド』を
第1巻から現在まで刊行されている第28巻まで
この2日間ほどで読む。
『バガボンド』の圧倒的な表現力に、
ぼくのなかの言葉が次々にその形を失ってしまうのがわかる。

きっかけは、雑誌『考える人』2008年秋号に収められている
内田樹と井上雄彦の対話「日本の身体」。

第28巻は、一乗下り松での吉岡一門との死闘が終わるまで。
近々その連載が再開されるようで、
いよいよ佐々木小次郎との巌流島である。
『バガボンド』は、吉川英治原作の『宮本武蔵』だが、
ここでは、原作とは異なり、
佐々木小次郎は耳のきこえないキャラクターになっている。
16巻にはこんな作者のコメントがある。

  言葉にした途端なにか違和感をおぼえる、そういうことがある。
  人の感情とは、言葉で過不足なく表わせるもののほうがじつは
  少ないのかもしれない。
  形のない感情を形のないままに伝えられないものか。
  そんなことを考えているうちに、言葉のやりとりを用いないキ
  ャラクターが生まれた。

言葉にしなければ形をとることのできないものがあり、
言葉にすることでその形に苛立ちをおぼえてしまうものがある。
ぼくの身体も、ぼくの「言葉」なしでは成立しないわけだが、
その「言葉」によってさまざまに縛られてもいる。
その縛りから逃れようと言葉をさまざまに学ぼうとするのだが、
自由になったかのように見える部分、
逆に縛りもまた強くなる・・・
という繰り返しになることが多いのではないか。
そんなことを感じてしまう。
だからといって、言葉を学ぶことをやめるわけにはいかない。
とはいえ、たんになにかの概念を固定的に覚え込むような、
そんな学び方だけは避け、そこからなにかが育っていけるような
そんな学び方ができないものかといつも苦心惨憺する。

ぼくに、音楽、とくに言葉やその意味に縛られることの少ない
音楽が欠かせないのは、おそらく
言葉から距離をとって別のところにいたいからかもしれない。
もっともそれで言葉から離れられるとは安易には思っていないが、
じっと耳をすませている時間が環境的にもむずかしいとき、
言葉の違和感から逃れ、この身体や魂を憩わせ、
ときに緊張と弛緩のあいだの言葉にならない物語を生きさせるには
そんな音楽が必要になるのである。

この、感情、
この、生命の流れ、
を、そのままに感じ、観じることのできる時間のために。