風のメモワール9

河井寛次郎展


2007.6.9

先日、岡山県立美術館で開催されている
『河井寛次郎展』に出かける。
京都国立近代美術館所蔵のものを中心に
岡山県下の関連作品を加えた約300点が展示されている。

ときおりそういう気分のときはあるのだけれど、
その日は、厭世的というか鬱というか
泣きたいような泣く気力もないような
生きていることそのものが苦しく
空虚が自分の底を流れているような気分だったのだが、
心のなかで「カワイカンジロウ・カワイカンジロウ」と
唱えるような感じで、美術館への道を歩いていった。

東方出版から2年ほど前に刊行されていた
『京都国立近代美術館所蔵「川勝コレクション」河井寛次郎作品集』で
その作品を何度も眺めてはいたのだが、
実際に見る作品は、ひとつひとつが生きて!!いて
楽しく、あまりに豊かで、
それまで自分が陥っていた空虚の底に
おーい!と声をかけられているような気持ちになった。

河井寛次郎の言葉もまた生きてこちらに声をかけてくれる。
会場には、木彫拓本も展示されていたのだが、
たとえばそのなかにこんな言葉がある。

  自分でつくってゐる自分
  自分でえらんでゐる自分
  どんな自分をつくらう
  どんな自分をえらばう

そして、こんな。

  見られないものばかりだ
            見る
  されないものばかりだ
            する
  きめられたものはない
            きめる

もちろん、それらの作品を見ることができたからといって、
元気はつらつになったというわけではないのだけれど、
すくなくとも、今ここにいる自分が
「自分でつくってゐる自分」「自分でえらんでゐる自分」
であることが実感されるようになった。
今のその虚の気分の自分も
「自分でつくってゐる自分」「自分でえらんでゐる自分」である。

そうであるならば、
いまだ発見しえていない自分や
いまだなしていないものなどに
向かっていく自分をつくるほうへと
歩いていくほうがずっと自由ではないか。

まだ見ぬ自分はどんな色、どんなかたちをしているのだろう。
まだしていないことはどんな楽しいことだろう。
(悲しく苦しいこともあるだろうが、それさえもまた楽しみである)

美術館をあとにしたぼくの足取りは
なにがしか軽くなっていたのはいうまでもない。