風のメモワール86

23年


2008.9.29

23年ぶりで、
村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読む。
発行日をみると、1985年の6月15日とある。

読み直してみると、ストーリーなどほとんど忘れ去っていて、
ピンクずくめの太った女の子のつくったサンドイッチがおいしいとか
ギャングまがいの登場人物のキャラクターやその会話とかいうような
そうした細部のほうだけをよく覚えていたのはなぜだろう。
おもしろいものだ。

23年ぶりに読むということは、
あたりまえの話だけれど、目線が違う。
読むときのこちらの心の動きも違う。
この作品の主人公は35歳だが、
23年前に読んだとき、ぼくはその35歳よりもずっと若かったし、
いまではその主人公よりもずっと歳をとっている。
まあ、歳をとるということは、意識さえしていれば
かなり複合的な視点を獲得できるということだ。
悲しみの深まりさえもがそこに深い陰影を刻みながら。

1985年には、カリーナ1800GT・ツインカムターボに
カー・ステレオがついているのが、カセットテープだったりもする。
そういえば、その頃はCDプレイヤーは発売されてからそんなに経って いなくて
車についているということはなかったのだ。
ぼくもまだたぶんCDプレイヤーなるものを買ってはいなかったはず だ。
だから音楽はまだほとんどレコードで聴いていた。
それで、車で聴くときには、カセットテープに録音したものを聴い ていた。
その時代のカセットテープはいまだに1000本単位でまだ手元にあって
もうさすがにほとんどかけないけれど捨てられずにいて
引っ越しのたびごとに、レコードとカセットがお荷物のようについ てくるのだ。
それがいまや、i-Podである。
でもこれも、23年後には、カセットテープ化しているのだろう。
・・・といったような読み方さえ23年後にはできるようになるのだ。
これは23年ぶりに読み返すことのできる年寄りだけが
享受できる体験でもある。

そういえば、先日、仕事でその23年よりももっと前の
「フォークソング」なるもののコンサートを実施するための仕事の ひとつのために
ぼくが中学生の頃に買った、シングルレコードを撮影に使ったりもした。
その頃のシングルレコードは400円だった。
考えてみれば、その頃の400円というのは、
そしてLPレコードの2000円というのはすごく高かったことが あらためてわかる。

まあ、そういう楽しみ方は別としても、
この「世界の終わり」の話は、今回、以前にもまして
ぼくのなかにあるだろう無意識の世界の物語の存在や
それらとの関係について考えさせられるものだったし、
そんななかで、ときにぼくの深い悲しみと意志のようなものが
静かに共振しているのを感じ続けることができた。

そこにはこんな泣かせるところもあった。
たぶん23年前にはまだ今のようには泣けなかったかもしれない。

  しかしもう一度私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり 同じような
  人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれがーーその失 いつづける
  人生がーー私自身だからだ。私には私自身になる以外に道がな いのだ。ど
  れだけ人が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美 しい感情や
  すぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私 自身以外の
  何ものかになることはできないのだ。
  かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるか もしれない
  と思っていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・ バーグマンと
  知り合うことだってできるかもしれないと考えたことだって あった。ある
  いはもっと現実的にーーそれが実際に現実的であるかどうかは べつにして
  ーー私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることが できるかも
  しれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自 己を変革す
  るための訓練さえしたのだ。・・・しかしそれでも私は舵の曲 がったボー
  トみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自 身だ。私自
  身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻っ てくるのを
  待っているのだ。
  人はそれを絶望と呼ばなければならないのだろうか?
  私にはわからなかった。絶望なのかもしれない。ツルゲーネフ なら幻滅と
  呼ぶかもしれない。ドストエフスキーなら地獄と呼ぶかもしれ ない。サマ
  セット・モームなら現実と呼ぶかもしれない。しかし誰がどん な名前で呼
  ぼうと、それは私自身なのだ。(P.522-523)

人はどんなにあがいてみたところで、
自分自身に戻ってくるしかないのだけれど、
それが地獄であれ天国であれ現実であれ、
そこからしか変容も成長も(同時に堕落も)ないわけで、
そこを避けることは決してできないということは
23年前よりは実感としてもよくわかるような気が知る。

まあ、あらためて読んでみて、
その大変な重さをひしひしと感じた作品なわけでした。
随所にある自意識いっぱいのユーモアとリズミカルな文章のおかげで
その暗さ、重さを引き受けることもできるのだけれど。

最後に、今回とても興味深かったことをひとつ。
この作品は9月29日にはじまりその数日後に終わる話。
今日は9月29日。
ほぼこの作品設定と同じ季節に読み直すことができたのは
なかなかの偶然の一致だなあとしみじみ。