先日来、ユングや河合隼雄などを読んでいる関係で 
        ◎河合隼雄+村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社/平成8年) 
        を読み直し、もういちど村上春樹の主な作品を読み直してみようと思っていた矢 
        先、 
        「心理療法と村上春樹の世界」をテーマにした 
        ◎岩宮恵子『思春期をめぐる冒険』(新潮文庫/平成19年) 
        を見つけて、読み始めた。
          村上春樹をはじめてよんだのは、最初の作品『風の歌を聴け』の文庫版。 
          そういえば村上春樹の文庫というのはこの一冊だけである。 
          そのときすでに『1973年のピンボール』(1980)だけはでていて 
          『羊をめぐる冒険』(1982)は、まだでていなかったように思うので 
          1981年か1982年頃のことだと思う。 
          その頃から、主な作品はずっとリアルタイムで読んできているが、 
          そういえば読み返してみることはあまりなかったように思う。 
        作品はさまざまな観点から読む可能性があるという 
          ぼくなりの倫理感のようなものがあって、 
          作品をある特殊な観点だけから読む、 
          とくに精神分析的な観点から読むとかいうのは 
          あまり好きではないところがあったのだけれど 、 
          気がつくと読み終えていた。 
          半ば忘れていた物語があらためてよみがえり、 
          ぼくのなかにまた別のバージョン、 
          別バージョンではありながらとても切実な視点からのバージョンの物語が 
          浮かび上がってきたように思えた。 
        著者は臨床心理を行なっている方で、 
          村上春樹の物語と平行させながら、 
          「クライエントが生成していく物語につきそう治療者」として 
          心理療法のプロセスの中で起こったことが紹介されていく。 
        著者がこのような著書を書いた理由は3つあるといっている。 
          第一は、「対談やエッセイなどで村上春樹自身が、 
          小説を書くときの自分のスタンスが自己治癒的なものであることについて 
          はっきりと言及していること」。 
          第二は、「治療場面でかなりの数のクライエントが 
          彼の小説について話題にすること」、 
          第三は、「(これがいちばん強い動機だが) 
          村上春樹の小説を読んでいると、まるで心理療法の現場で起こっていること 
          そのもののように感じられるから」だという。 
          そして、「村上はエッセイや対談の中で、自分の小説を書き上げたあとは 
          ほとんどその内容を覚えていないと言っているが、 
          それも心理療法のプロセスと重なって聞こえる」ということである。 
        10年前に河合隼雄さんと村上春樹の対談を読んだときにも 
          心理療法との関係について考えてみたことはあるけれど、 
          今回こうして具体的に心理療法と村上春樹の物語が重ね合わされると 
          そこにある不思議な関係についてさらに深く考えてみたくなる。 
        さて、本書の最後に、紹介された心理療法の着地点として 
          「日常への着地」「日常という物語を生きる」ということが述べられていた。 
          この視点はとても大事なことだと思う。 
          少しだけ引用してこのメモを終える。 
          「向こう側」にかかわる多層的な現実のなかに自分を位置づけていく 
            プロセスこそが、自分自身の物語を発見し、生きていくことである。 
            そしてそれが日常生活に根ざしたものになってこそ、本当の自分の物 
        語を生きていると言えるのではないだろうか。  |