風のメモワール83

「世界のナベアツ」から


2008.9.19

「3の倍数と3がつく数字の時だけアホになる」という
世界のナベアツを見ていて思うこと。

ちょうど、荒木飛呂彦の新刊『スティール・ボール・ラン』第16 巻の最後にも
このネタで遊んでいるシーンがあったが、
「3の倍数と3がつく数字の時だけアホになる」というのは
ごくシンプルなギャグのように見えながら、なんか深い。

実際、「3の倍数と3がつく数字の時だけアホになる」 というのを見ても、
アホになっている人がアホにみえるわけではないのだ。
しかもこのネタで、「アホ」の部分をいろんな芸能人がやってみる
というネタもあったりするくらいで、
ただアホに見えるのだったら、そんなことはやる気にならないはず である。

自分で決めたときに自分で決めたようにアホになる、というのは
適時打を必ず打てるバッターのようなもので、スゴイことなのかも しれないのだ。

考えてみれば、じぶんではアホだとは思っていなかったり、
むしろ自分がカシコイとか立派だとか人よりもすぐれている尊敬さ れている・・・
とか思いたがっている人を見ると、
そういう人のほうがずっとアホに見えてしまうことがある。
個人だけではなく、集団的にもそういうのがある。
そういう人(たち)に共通するのは、
自分をアホだと思ってないということなのだ。

だから、じぶんをアホにできるひとはアホには見えない。
これについてはちゃんと考えておく必要がありそうである。

さらにちょっと考えを勝手に進めてみることにしたい。
どんな人もある程度は多重人格なところがあるというのは
自分をある程度観察することができる人ならだれでもわかることだが、
程度問題ではあるとしても、気づかない、もしくは気づきにくいところで
別の人格として徘徊しているということがあるのである。
イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックのような感じだろうか。

ホワイトとブラックは、
ほんとうは自らの救済を、錬金術的な結合を求めているのだけれど、
ホワイトさんが、自分のキャパシティを超える人格を放り出してし まうものだから、
放り出されたブラックさんは、悲しいまでにずるがしこくたちまわ ることになる。

ブラックさんを私は知らない/知りたくないが、
ブラックさんはホワイトさんを知っていて
ホワイトさんのできないことをいろいろやてみようとする。
もちろんブラックさんはひとりではない。
おびだたしいブラックさんたちがほくそ笑んでいる。
これも困ったことだが、
そうしたブラックさんたちでほとんどができているカシコイひともいて、
そのブラックたさんたちのほうが
あまりに世間的にフツウのタテマエなものだから
肝心のホワイトさんがどんどひきこもりになったりする。

だから、「3の倍数と3がつく数字の時だけアホにな る」のを見たりすると
あまりにカシコイほうで仮面をつけているブラックさんたちも
マズイなあと感じて、そのアホが妙なリアリティをもって感じるの かもしれない。
反省機能でもある。

自分をアホにできる可能性というのは
ある意味「汝自身を知れ」につながるものでもある、と
そんなふうにも感じながら、
さっきも、YouTubeで拾ってきた「世界のナベアツ」を見て
笑っているのでありました。