風のメモワール81

珈琲のこと


2008.9.17

coyoteNo.31 2008.10月号の特集は、「森の国、グアテマラへ」。
「コーヒーベルトを行く[前編]」とあるように、珈琲の話でもある。
特集記事は、駒沢敏器(文)+星野尚彦(写真)による。
グアテマラでコーヒーの実を手積みするのは、マヤの末裔とか。
一時期、マヤとその暦にはまったことがあったのも影響しているのか、
不思議な郷愁にさそわれる。

モーツアルトは珈琲をこよなく愛し、
バッハは珈琲カンタータを作曲した。
珈琲は音楽ともよく似合う。
そういえば、珈琲を飲むと思い出すのは
学生時代にあったジャズ喫茶なるところで
からだに染みこんでくるほど聴き漁っていた音楽や
そこで読みふけった本のこと。
もちろん、マンガも。
「火の鳥」や「ブラックジャック」など、
手塚治虫の作品を読み続けたりしたのもそこだったりした。
そういえば、変な話だが、ヴィトゲンシュタインなんていうのも、
ぼくにはコルトレーンとイメージがだぶっていたりもする。
ウィーンとコルトレーンというのは合いそうもないのだけれど。

さて、自分ではじめてちゃんと珈琲をいれたのは、
(インスタントではないという意味)
高校生の頃だったように思うがよく覚えていない。
親戚のアメリカ帰りのお祖母ちゃん(母方の祖母の姉妹)からもらった
真鍮でできたパーコレーターで入れたのではなかったかと記憶している。
このパーコレーターは、大正時代のものだということを聞いたような。

大学の頃、このパーコレーターで入れた
フレンチ珈琲をyuccaといっしょに飲んだことなどを思い出したが、
そういえば、このパーコレーター、どこにいってしまったんだろう。
なくしてしまったのかもしれない。
パーコレーターの上部には、ドーム型になっているガラス部分があって、
沸騰したお湯がそこにぽこぽこと上がってくるのをじっと見ながら
珈琲ができあがるのを待っていたのを懐かしく思い出す。

それ以降、自分でいれる珈琲といえば、
ほとんどペーパーフィルターになっている。
途中で変わったことといえば、
最初は挽いた豆を買っていたのを
手動のコーヒーミルを買って
珈琲をいれる度毎に豆を挽くようになったことである。
今は二代目のコーヒーミル。

そうそう、大学のはじめのころは、
今はちょっと信じられないところもあるが、
まだ珈琲には砂糖を入れて飲んでいたし、
冬場には、行きつけの喫茶店で
甘いウィンナコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。

松山にいた10年ほど前には、まだスターバックスとかもなくて、
お金もないのにけっこうな値段の自家焙煎の珈琲豆を買っていた。
たしかに高かったが、値段に見あうだけとても美味しかったし、
そこで飲む珈琲カップが、とても素敵だった。
yuccaと「今日はヘレンドかな?」とか
毎回どんなカップがでてくるかを楽しみにしていた。

そういえば、今や、各地にスターバックスはあるし、
自家焙煎の豆もそこそこ美味しいところが多い。
贅沢な話だと思うが、これだけ美味しい珈琲を
毎日のように飲めるようになったのは、
グアテマラで手積みしているマヤの末裔のような
こんな農園が各地にあるからだろう。
珈琲豆を買うときにはその産地のことを思い浮かべてみたりもするが、
こうしてグアテマラの珈琲農園のことが記事になっていたりもすると
また珈琲の味に新たなものが付け加わったような気になる。