風のメモワール80

性格のこと


2008.9.15

「内向」「外向」という用語はユングによるものだが
ユングはその『タイプ論』という大著で
内向ー外向という一般的態度や
思考ー感情、感覚ー直観という心理機能の用語で
人間の性格のタイプを詳述している。

なんとなく理解はしているとは思っていたけれど、
実際にそれがはじめて論じられたユングの著書を参照すると
それがひどく分厚い論文で、
単純に説明できるような簡単なものでないことがわかる。
とはいえ、それにあたるのはちょっと苦しいので参照程度にするこ
とにして
河合隼雄さんや秋山さと子さんなどの著書で大まかな理解を得るこ
とにした。
あらためてそれをもとに自己分析してみると
わかっていたこととはいえ、あらためて、自分がひどい内向であって、
しかも思考、直観型であることに思わず笑ってしまった。

ぼくは、世の中の、いわゆる「そういうものだ」という決まり事に
ついて、
自分が納得しない限り、ほとんどどうでもいい感じで生きてきていて
形ばかりの権威や資格やら組織やらについては、
できるかぎりほとんど馬鹿馬鹿しいとしか思わないというか
ほとんど無視の状態でやってきているけれど、
そういう態度そのものが、ひどく内向的であるのは確かのようである。
実際、世の中は、形ばかりの権威やら資格やらでほとんどができていて、
それを無視すればほとんど社会生活はできない。
こういう性格でよく今までなんとか生きてこられたというのは
ある意味、奇跡のようなことかもしれないとさえ思う。

ちなみに、性格・タイプに関して
シュタイナーは、古代において使われていた体液による分類の
多血質、胆汁質、粘液質、憂鬱質という4つを用いて説明し、
教育上の示唆においてもそれをガイドとしていることが多く、
その関係で、シュタイナーをよく読むようになってからは
ぼくの見方としていえば、その4つのタイプ分けで
人の性格を見ることがわりと多くなっているが、
そのタイプ分けでいうと、
ぼくの性格は、多血質ー憂鬱質型を主としているようである。
そして、おそらく胆汁質型の部分がもっとも欠けている。
多血質とはいっても、社会性の部分ではほとんど機能せず
ほとんど探求的な方面でそうだというにすぎないので、
考えてみるにつけ、よくこんなので生きているものだと
自分ながら感心してしまう(^_^;

さて、ユング派の人たちは、ユング自身も含めて
ひどく内向的な方が多かったようである。
でないと自分のシャドーやアニマ、アニムスなどと向き合ったり、
アクティヴ・イマジネーションをしたりといった
個性化のプロセスを長い時間をかけて追求することは
まずできないだろうというのは確かだろう。
しかしその分、その影響を受けている方は、
非常に個性的な方が多くでているように見える。

ところで、シュタイナーはどうかというと、
ぼくのイメージでは、外向的な感じのほうを強く受ける。
シュタイナーはとても社交的だったし、
いろんな人の考えていること感じていることを
その人以上によくわかったりもしていた。
もちろん、認識力が非常に高いので、
単に、外的なものをうのみにするというのではなく、
自分のなかにそれを容れる余地があったわけだけれど
そういう余地がなくスクエアで、その影響だけを強く受け、
各自の個性化が達成されないときには、
外向的な方向のもつシャドーが強くでてしまうのかもしれない。
それで、アントロポゾーフ関係には、ぼくの見る限りにおいてでは
あるけれど、
外向的なタイプの方が多くなっているのではないかと勝手に推察し
てみている。

そういう意味でいうと、シュタイナーとユングの両方から学ぶ
ということはバランス感覚としては有効なのだろうと思うし、
日本のように場というかフィールドのアイデンティティに同化しが
ちな場合、
とくに、個性化のための営為というのがとくに重要になってくるよ
うに思う。
とはいえ、外的価値で生きている人に自分の価値で生きよといったり、
自分の価値で生きている人に逆の方向性をもって生きるように
ある種の統合を促すというのは大変むずかしいようにも思う。

とはいえ、少なくとも、自分の性格について
よくあるように占いや血液型云々というだけではなく、
(西洋占星術や四柱推命や血液型なども雑誌の安易な特集というのでなく
それなりに見ていけばそれはそれで示唆されるところも多いわけだ
けれど、きちんと分析的に見てみるということが
とても重要なことであるのは間違いないはずである。