風のメモワール79

永瀬清子と安東次男


2008.9.15

永瀬清子の言葉は、
生活と抽象を絶妙に案配して
たしかに届けてくれる光のようだ。
最近は断章集(『蝶のめいてい』や『流れる髪』など)の
言葉が魂のサプリメントのようにぼくには働いてくれる。

現代詩手帖9月号は、
特集「安東次男、その風狂の精神」
小特集「永瀬清子の魅力」。

永瀬清子が小特集とはいえ特集として組まれているので
久しぶりに現代詩手帖を読んでみることにした。
特集が「安東次男」というのも興をひかれた。

「安東次男」は、俳句の世界のほうが有名だが
ぼくが知ったのは学生時代、思潮社の現代詩文庫からだった。
とはいえ、そんなに読み込んだというほどのものではない。
今回、特集にあたって、思い出深く
書棚から取り出してみたくらいででしかない。

その二人の特集が同じ号で組まれたのは
どうしてだろうかと少し考えてみたが、
とくに理由はなさそうだ・・・と思いつつ、
年譜をみると、安東次男は永瀬清子と同じく岡山生まれ。
安東次男のほうは、津山市とある。
数年前から岡山に住むようになった身としては、
やはり岡山出身の作家などが気になることが多くなる。
俳句にはそんなに親しんではいないものの、
安東次男が津山出身だということを知り
その俳句に関する、読まずにおいたままの著書を繙いてみようか
とか思うきっかけになりそうにも思う。

さて、永瀬清子の詩は、その深い生活感や論理性なども特徴だけれど、
その言葉のリズムの部分にも意識的であるように感じることが多い。
断章集『蝶のめいてい』のなかに
「詩にリズムが」というのがある。

  詩にリズムが必要であることは、おどるためではなくて精神の壁に
  きざみつける方法だからだ。リズムは錐だ。

ノヴァーリスに「科学(学問)はポエジーになる、哲学になったあとに」
というぼくのとても好きな言葉があるけれど、
永瀬清子の詩のリズムは、
「精神の壁にきざみつける方法」であることで、
そのポエジーには深い哲学性が織り込まれ
そのために情に流されない真性の言葉が成立するのかもしれない。

詩にかぎらず、どんな言葉にも
「精神の壁にきざみつける方法」への意識がなければ、
それはたんなる即物的なものになってしまうように思える。
その言葉が伝える内容とリズムは切り離せないはずである。
切り離されたとき、その言葉の影の部分には
さまざまな魑魅魍魎がうごめくようになってしまいかねないのでは
ないか。
もちろんリズムは、ヒットラーの演説のように、
ひとを陶酔させる麻薬であってはならないし、
官僚がつくった文章をただ読み上げるような死体のようであっても
ならない。
まさに「精神の壁にきざみつける方法」でなければならない、
ということに常に意識的でありたいと願う。