風のメモワール74

臨床の知


2008.8.19

こんな記事があった。

  <対人関係>「キレる」構造を研究へ 文科省
  8月19日2時31分配信 毎日新聞

   引きこもりや「キレる若者」など対人関係の不適応が問題化していることを
  受け、文部科学省は来年度から、人間の社会行動やコミュニケーションに関係
  する脳の機能や構造を特定する研究に乗り出す方針を固めた。脳のある部位の
  変化や個人的特徴が、行動などにどのような影響を与えるかを示す指標を作り、
  問題行動や社会性障害の予防や治療につなげることを目指す。
   文科省や専門家によると、脳の生物学的な特徴と社会行動との関係は、動物
  では比較的解明が進んでいる。マウスでは、ある種の脳内物質を欠くと自閉的
  行動を示したり、攻撃性が高まることが分かってきたという。

あいかわらずというか、なんというか。
こういうのでないと、予算がおりないのが「科学」らしい。
人間の行動を「脳内物質」に還元してどうするんだろう。
「ある種の脳内物質を欠くと」そうなる→「脳内物質」を投与する
ということにしかならないような。
医療の問題も、病気→原因の確定(病名をつける)→治療(薬・手術)
ということになって、そりゃあ、医療費も破綻するよなあ、というのが実感。

ちょうど先日来、河合隼雄さんの著作を読み直しているので、
それに関連する「臨床の知」について再確認しておくことにする。
あらためて見てみると、中村雄二郎さんの『臨床の知とは何か』がでたのが
1992年となっている。
もう15年も経っているけれど、世の中は、変わらないどころか、
どんどん袋小路になってきているように見える。
河合隼雄さんの格闘というか孤軍奮闘もあらためて実感させられる。

   科学を非常に大切に思い、科学ではないということは即ち信用できない、と
  思うほどであったが、それはそれとして、ともかく相談に来た人に対して実際
  に役立つことをしたい、役立たないことをしても仕方ない、という「現場感覚」
  のようなものがあり、いろいろと迷いながらも、自分の感じるところを大切に
  して臨床の仕事を続けてきた。
   そのうち、生身の人間を相手にして、現実に生きる問題について共に考えて
  ゆくことは、「近代科学」とは異なる方法をとらざるを得ず、それが科学でな
  いからと言って、間違いとか駄目というのではない、という考えがだんだんと
  明確になってきた。ただ、これを他人に伝えるときに、どのように言うかにつ
  いて悩んでいるときに、哲学者の中村雄二郎さんによる『臨床の知とは何か』
  (岩波新書)が大きい助けになった。
   世界を自分から切り離して観察し研究する近代科学による知に対して、人間
  はどうしても自分との関連において、あるいは、自分をも入れこんだものとし
  て世界をいかに観るかということが必要である。後者が「臨床の知」にかかわ
  ってくる。そうなると、世界の個々のことを一義的に定めることはできず、極
  めて多層的、多義的になってくる。したがって、概念化して考えることよりも、
  いかにそれとかかわるのか、なにをするのか、ということが大切になってくる。
  これらのことを、中村雄二郎さんは極めて明快に、筋道を立てて論じ、「臨床
  の知」の有用性を示してくれている。
  (河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』
   阪急コミュニケーションズ 2003.2.17発行 P.10-11)

科学に限らず、世界観として多くの人は、
「世界を自分から切り離して観察」することになれている。
なにかが起こったとき、
「自分との関連において、あるいは、自分をも入れこんだものとして」みる、
早い話が、自分がそこに深く関わっているということを
都合の悪いときには認めない、ということでもある。
ご都合主義的な科学主義のようなものだろうか。
(データの主観的な偽造さえ行ないながら)

物理学ではすでに、観測問題として、
シュレディンガーとハイゼンベルクが1925年頃に問題化しているはずで、
それからしても、主体はあらゆるものに
いってみれば縁起的に関わっているはずなのだけれど、
それだとどうも都合が悪いらしい。
だから、「キレる」のを「脳内物質」のせいにしておきたいわけだろう。
だれも、自分もそこに深く関わっているとは認めなくないのだ。
<「キレる」構造>のなかに、研究者そのものが関わっているとなると
たしかにわけがわからなくなるわけだけれど、
わけがわからないことはやはりそれなりに
わけがわからなくなったところから始める勇気は必要じゃないかと思うのだ。