風のメモワール72

河合隼雄+南伸坊


2008.8.8

河合隼雄さんの著作はずいぶんたくさん読んだ気になっていて、
それなりに(勝手に)納得していたりするものだから
しばらく読まずにいたりもするのだけれど、
ときおり、ああ、まだこれ読んでなかったな、
とか思って読むと、
また、じんと心の深みになにかが落ちてくる。

今回そういえばまだ、と手にとってみたのは、
南伸坊の『心理療法個人授業』(新潮文庫)である。
先生が河合隼雄で、南伸坊が生徒。

しかし今回ちょっと感動したのは、
南伸坊のほうだったりもした。
この人、ずいぶんスゴイ人だったんだ。
ずいぶんスゴイというのは変な表現だけれど、
この人の意識というのは、ずいぶん包容力と
みずからを変容させる力、そしてそれを裏打ちする
生きた思考力をたくさん備えているように思えた。
それに、やはり絵が描けるものだから、
そこで描かれている「先生の二つの顔」というのも
ちょっとドキリとする。
「一つは小さいコドモのような笑顔、
一つはヤクザの親分みないな鋭い眼」

さて、気になったところをメモしておくことにする。

   しかし、臨床心理学や、河合先生のおそるべきところは、
  そうした「わかること」の上にさらに、「わからないこと」
  をつなげていくところではないかと私は思っている。
   そうして、それを強調するあまり、すべてが「まだようわ
  からん」かのようになっているところではないか?
  ・・・
   引きこもりを治すコツ、自殺願望をなくすコツ、登校拒否
  がなおるコツ、を見つける人がいる。「大声でがなったり」
  「つきはなしたり」「大泣きに泣いたり」っていうコツで実
  際それが奏功する。その人は教祖になる。
   そこで「わかった」と思うと、それがすべてに通用すると
  思ってしまう。「わかる」に「わからない」をつなげるとい
  うのは、そんなにカンタンではない人間の心というのを見据
  えているからだ。なんにもわかってないというのとは全然違
  う。当然ですけどね。(P.199-200)

  「禅」とかって、どんなものか、よく知りませんが、河合先
  生を通すと、禅がホントはどんなこと言いたかったのかわか
  る気もする。
   二者択一を迫られた時、二者から一つを択ぶ必要はない。
  そもそもなぜ、二者択一を迫っているのか、そこを考えるっ
  ていう話。
  「先生、臭いでしょう、臭くないですか?」
   と、臭いか臭くないか?二者択一を迫ってくる人は、実は、
  どっちの答えも、聞きたいわけじゃないんでした。(P.226-227)

知性は「分かろう」とするし、
それは必要なことであるのはまちがいない。
けれど、それは「分ける」ということで、
そこからなにかが失われてしまうということを
分かるときに、ちゃんとわかっている必要がある。
だから、分けられないというのは分からないことで、
最初から分からないとどうしようもない。

賢い人というのは、
問いと答えとの組み合わせをたくさん覚えていて、
それに当てはまらないことを避けることで、
ずっと賢く生きようとしがちだけれど、
歳をとってくると、
そんな賢さだけでは生きがたくなってしまう、
ということが、歳をとってくると実感されてくる。
(そんなに賢くなったことがないので、
賢い人のことは実際のところよくわからないけれど)

できれば、
「わかる」に「わからない」をつなげる
という智恵を身につけていたいと思う。
最初から「わからない」ままで
「わかる」ことのないままで
開き直るようなことはしたくないが、
分けたままで、つなげないというのも、やはり困るのだ。

理屈じゃないよ。
ではなく、
理屈もいちおうあるけれど、
その理屈を超えた
すごい理屈もあるかもしれないし、
まだ今は理屈がわからないこともある、
ということをちゃんと認めていくことが大事だなあと
あたりまえのように思える。

しかし、禅問答のような
二者択一を許されないありように
どう応じることができるか。
応じるためには、
知性もそれを越えたものも必要で
まだまだぼくには修行がたりないなあと実感。