風のメモワール71

米澤穂信のビルドゥングスロマン


2008.8.8

雑誌で特集していたので立ち読みしているうち
「古典部っていったい何?」とかいうこともあって
なぜか次々とその作品を先日まで読み続けていた。
米澤穂信である。

米澤穂信はみずからの作品を
「ビルドゥングスロマン」として
位置づけようともしているようである。
わかった気もするしわからない気もしていたのだけれど、
昨年の4月号に「ユリイカ」で「米澤穂信」の特集をしていたなかに
「表象精神病理」の斎藤環の
「距離と祈り、あるいは世界の多重化に関する覚え書き」があり、
そのなかに面白い示唆があったのでメモリーしておきたいと思う。

   米澤の目指す「ビルドゥングス・ロマン」は、いかにして可能となるか。
  (・・・)
   私見では、「多重世界」という設定は、「成長の不可能性」というキャラ
  の属性と不可分の関係にあるからだ。この設定はもちろん「セカイ系」に通
  ずるし、・・・多くのライトノベル、アニメ、コミックスなどに共通するも
  のだ。これらの領域においていかに「ビルドゥングス・ロマン」が困難なも
  のなっているかは、私が指摘するまでもないだろう。たとえば大塚英志の、
  いっけん奇妙にも思える「ビルドゥングス・ロマン」への執着は、こうした
  状況への苛立ちにもよるのではなかったか。
   それではなぜ、セカイの多重化が、成長の不可能性と結びつくのだろうか。
  (・・・)
   臨床的な意味での「セカイの多重化」は、いかにして起こりうるか。一般
  的に、それは「多重人格(解離性同一性障害)」の症例として表現される。
  人格毎に、独自のセカイが存在し、セカイ間は記憶の壁で隔てられているか
  らだ。ならば、なにゆえに複数の人格が生じるのか。トラウマの影響を回避
  するためだ。記憶の隔壁は、まずなによりも、トラウマをその中に封じ込め、
  その影響を最小限にとどめるために作られる。
   その試みは、しかし多大な犠牲を払ってなされることになる。なによりも
  大きな犠牲は「成長を止めること」だ。なぜ成長が止まるのか。ストレスや
  葛藤を適切に処理できなくなるためだ。多重人格のそれぞれの交代人格は、
  適切に葛藤することができない。辛いストレスや解決困難な葛藤に直面する
  と、容易に人格の交代が起こる。かくして不快な刺激は、すべてストレス担
  当の交代人格に押しつけられることになる。
   セカイの多重化を知ってしまった主体は、もはや成長することはない。成
  長とはストレスを内面化していく過程でもある。しかし、それが可能になる
  ためには、「固有(単一)の世界の固有(単独)の自分」に対する、揺るぎ
  ない信念が必要とされる。重大なストレスに見舞われたとき、「それが起こ
  らなかったセカイ」「リセット可能なセカイ」を信じようとすることは、不
  可逆な成長を犠牲にして可逆的な救済を選択することだ。それは言うまでも
  なく、トラウマ的身振りにほかならない。
   (・・・)
   「リセット可能な多重世界」がもたらす「希望」こそ偽なのだ。それはむ
  しろ、底なしの絶望に人をいざなう当のものだ。世界の複数性を断念し、
  「悪くなった世界」と「惨めな自分」を、世界の不可逆性とともに回復する
  こと。そこがいかに絶望的なイメージに満ちた世界であろうとも、「唯一の
  世界」と「固有の自分」には「成長」という希望が遺されるということ。
  米澤穂信にとっての「ビルドゥングス・ロマン」は、単なる野望ではなかっ
   た。それはすでに達成されていたことに、私たちは気づくべきだった。そ
  して、ビルドゥングス・ロマンとは、成長そのものよりも、成長への祈りを
  描く文学であったことにも。

あらためて考えてみれば、
私たちは「世界」のすべてを受け入れることはできないので、
多かれ少なかれ多重人格的に生きざるをえないところがある。
そして異常とか異常でないとかの違いは、
極論をいえば、たんに、今「世界」とされているものに
どれだけ適応できているかということにすぎないところがある。
とはいえ、「世界」をどれだけ自覚的に
自分のなかで受け止めることができているかの度合いは
大きな違いがあって、
それは「適応」ということとはまた別のことであることは
知っておく必要があるだろう。
それは、かなりつまらないたとえにはなるが、
お金がたくさんあって物質的に豊かな人というのと
精神的に豊かな人というのが重なり合わないようなものである。

ともあれ、人は「成長」するために、
「唯一の世界」と「固有の自分」を生きてみる必要がある。
そのために人はおそらくこの地上に生まれてきているのだろう。
「リセット」することのできないまま、
「悪くなった世界」と「惨めな自分」を引き受けながら。
その代償というのは、たしかにただ
自分の【「成長」という希望】だけなのだけれど。