風のメモワール69

吉本隆明と糸井重里


2008.7.27

ほぼ日から、『吉本隆明 五十度の講演』CDセットが発売されてい る。
以前からほぼ日では吉本隆明と糸井重里との対談が掲載されているのを
面白く読んではきていたものの、ちょっとばかり驚きの企画だった。
それにあわせて、安価に求めることのできる、
講演を「立ち聞き」できるCDもついた
『吉本隆明の声と言葉』が発売されたので
せっかくだから聴いてみることにした。

CDを聴き始めたとたん、
なぜ糸井重里が吉本隆明なんだろうという
これまでなんとなく思ってきた疑問が氷解した気がした。
吉本隆明の声が、ほとんど糸井重里なのだ。

ぼくはこれまで吉本隆明の著作などを
少しは読んでみていると思うのだけれど、
その「思想」というのにいままでピンときたことがない。
吉本隆明という人のことは、とても親しく思えるのだけれど、
その「思想」となると、おそらく
そこから決定的になにか影響を受けたことがない。
というか、それほど印象に残ることがなかった。
そのくせ、吉本隆明という人がいるということだけは
ずいぶん時代とともに気になってきていたようにも思う。
そのギャップというのはいったい何なんだろう、と
半ば無意識に思ってきたように感じるのだ。

それが、ああ、吉本隆明は糸井重里だったんだ、とふいに思った。
糸井重里については、ぼくも仕事からからいっても、
それなりにその存在を意識してきているのだけれど、
その「思想」に影響を受けてきたわけではない。
ある意味、糸井重里がその時代時代を感じさせる
時代の「編集者」的な存在としてあるように、
吉本隆明もそういう時代を感じさせる「編集者」的な存在なのだ。
少なくともぼくにとっては。
だから、吉本隆明自身の思想とか批評とかいう切り口ではなく、
そこから発している「空気」こそが問題だったわけである。

そのことは、吉本隆明を、もちろん糸井重里も、
その意味を薄めるというのではない。
むしろ、強烈な「思想性」の中心ではないというところにこそ
その存在そのものが持っている、ある種の強い個性的な「関数」的役割が
クローズアップされてくるんだろうと思うのだ。

いやあ、声というのは面白い。
上記に書いたことは多分にぼくの思いこみなのだけれど、
「声」というのは、「思想性」よりも
むしろ「身体性」や「身体性」を含んだ存在のありようを
不思議なかたちで浮かび上がらせてくれるところがある。